「退院の心構えはできたかね?」
ドクターは、いつになく、にこやかだ。
「明日は、バルセロナから君の叔母さんが来てくれるってわけだ。そして、君を引き取ってくれる。ようやくな。えらく時間がかかったもんだ。ひどく異例だ」
文句を言いながらも、満足気だ。
俺は、全然、いい気分なんかじゃない。言い返してやってもよかったね。心構えなんて、そんなもん、できてるはずねえだろって。
だってね、顔には出さないようにしてたけど、実際のところ、ふつうは不安に決まってるじゃないの。
意識を回復してからっていうもの、俺はこの病院から一歩も出たことはないんだ。病院の外っていうのがどんなふうになっているのか、ひとつも知らない。
俺にはさ、それまでの、なんていうか、生活の記憶が、まったくないわけ。これから、どこに住んで、毎日、何をしたらいいのか。
退院が現実的になったこの何日か、いろいろ考えてさ、ま、なんとかなるだろう、って思えるようにはなった。
でしょ?
そんなもんね、ぼちぼちやってけば、なんとかなるはずだ。そう。たいがいのことは、時間の問題よね、きっと。
ドクターは、机の上の書類を整理していた。
感じ悪いぜ。もうね、そばにいる俺に関心がないみたいなんだ。
だからさ、ちょっと、俺の存在をアピールするつもりもあってね、聞いてみたのよ。
「あのお、事故の前、俺は、どんなやつだったと思います?」
そしたら、
「それを聞きたいのは、私のほうだ」
いきなり、デッカイ声。
ドクターは、一気に、うんざりだって表情に変わってる。
めちゃくちゃ不機嫌そう。俺よりさ、あんたのほうが、まともな生活ができてるのか、心配になるくらいだぜ。
「おまえは、自分がどんな人間だと思っているんだ?」
ドクターは、怒っているときは、俺のことを「おまえ」と呼ぶ。ふつうのときは「君」という。
俺、学んだの、この入院中の数週間で。
つまんない学習。
「いや、今の質問は訂正しよう。どんな人間だったと思っているんだ? 何をどこまで覚えていて、何を忘れてしまっているんだ?」
俺は、首を振る。
「それがわかったら、苦労しないんで。だいたい、俺は、本当に……、その……、陸上競技とかいうスポーツの選手だったのかな?」
「違うのか? あのコーチとかいうやつの言っていたのは。嘘っぱちなのか?」
ドクターは、大きな声を出した。
「嘘も本当も、覚えてないんだから……」
くっだらねえな。ホント、こんな会話。
俺、席、立とうと思ったのよ。はい、さようなら、長い間、お世話になりましたねって。
するとね、ドクターは、俺の肩に手を置いた。
まじめな顔になってんの。
「いいか、整理しよう。物事はなんでも基本に返ることが大切だ。一見したところ複雑に見える問題も、余分なものを切り捨てさえすれば、いたってシンプルになる。学問に於《お》いても、世間の雑事でも、たとえば恋愛でも同じだ」
ドクターは、咳払いする。顔がちょっと赤味を帯びている。
そんなとこで、恥ずかしがるなよな。
「うん、いいか。私は知っているだけのことは、君に教えたはずだ。君の名前は高橋進。十八歳。約一ヵ月前、交通事故でここに運びこまれてきた。一緒にクルマに乗っていた君の御両親は、残念ながら亡くなられた。君だけが助かったのだ」
そこで一度ポーズをおくドクター。
あの、なんてったっけ、黙祷《もくとう》、みたいな感じ。
「奇跡的に無傷かと思われた君は、頭部の強打のため、記憶の一部を喪失した。やっかいなのは、この一部というやつだ。最初のうちは、言語も含めた多くの能力をも喪失しているかと思われた。完全に幼児に返ってしまったかのようにな。しかし、そんなことはなかった。それらは急速に回復、といっても以前の君の知的レベルは知らんがね。検査の結果、あのカードを覚えたりしたやつだ、君の現在の能力には、一応異常は認められていない」
ドクターは、途中からだんだんと面倒くさそうに、早口になってきた。
「ともかく、簡単に言ってしまえば、君は事故以前にあったことを忘れた。たった、それだけのことだ」
事故以前にあったこと、というドクターの言葉を聞いたとき、俺の頭の中で電気が走った。「サリナ」という単語が横切る。
「私たちは、医学的な治療の面では、君に対してやれることはすべてやったんだ。これ以上、病院にいる必要はない」
時計に目を走らせるドクター。
「君をここに閉じ込めておいたなら、一種の社会的入院になってしまう。家族からも世間からも見捨てられた老人が、行くところがなくて病院に入院し続ける。あの例の社会的入院ってやつの仲間だ。それこそが、現在の日本の医療の象徴ではあるがね」
そのとき、ナースが呼ばれた。仕切られた奥の部屋の入口で、若い助手のようなひとに何か説明をしている。
俺も、ドクターの話には、いいかげん、うんざりしてきた。長いじゃないの。あんまり役に立ちそうなことも言わないし。
でも、退院しちゃうんだから、一応、気になってたことを確認しとこうかと思った。
「実は、あの、俺、手紙もらったんですよ。十日ぐらい前かな、目が覚めたら枕もとにあって」
話しながら、俺は、別にたいして期待してなかったのよ。ドクターの反応は。
ところがね、俺が手紙って言ったとたん、やつの手からボールペンが落ちた。ノートから机の上にころがったんだけど、そっちは気にもしない。
で、俺のほうに、向き直った。
「ほお、どんな? 私は聞いていないな」
ドクターの目が光る。
「あの、なんか、この前のコーチの話とは全然違う俺がいたみたいで。でも、それもよくわからなくて」
「その手紙を見せてくれ。まず、実物だ。いま持ってないのなら、すぐに部屋に取りに行け。証拠を検証するのが科学だ。話はそれからだ。さあ」
ドクターは、前かがみになった。えらく、いきごんでる。
「それが、いまはないんですよ。なくなってしまった。引き出しに入れておいたのに」
そうなんだ。
あの狂った手紙はね、俺んとこにないの。診察を受けている合間に処分されてしまったんだろうか。
「それじゃあ、どんなことが書いてあったんだ? 言いなさい。その手紙の内容だ」
「えーと、あなたが事故にあったと聞いてショックだとか……。それから、会える日が楽しみで待ちきれないとか……」
説明しようとして、天才だとか救世主だとかいうのは、あんまりばかばかしくって言う気になれなかった。
だって、えーと、たしか、エル・サルバドールなんだぜ、俺は。
「夢だったんじゃないですか。看護室の方では手紙の配送は承ってませんし。それとも、昔、もらったラブレターの記憶がよみがえってきたとか」
いつのまにかもどってきていたナースが言った。
「ほう。それは、あり得る。脳の回復の状態によっては。まさにラブレターだな、会いたくてたまらない、とかいうのは。君は女の子にもてたのか?」
ドクターは嬉《うれ》しそうな顔をし、ヒゲに手を伸ばした。
ナースは、冷ややかな目つきで、俺を見おろしていた。
その俺が受け取った怪しい手紙の中では、彼女は味方だと書かれていた。でも、全然、そんな感じじゃないじゃないの。
あの手紙が、夢だった?
しかし、だったら、夜中に侵入してきた男のことは?
それも、全部、夢だと言われるかもしれない。俺が頭を強く打ったせいで、リアルなおかしな夢を見るのだと。
そして、実際、それはそうなのか?
弱っちゃうね、まったく。
俺には、現実(過去にあったことは、当然、覚えてない。現在進行中のはずの「現実」だ)と、夢っていうのか幻想っていうのか、その区別がつかないのか?
「バルセロナの叔母さんのことは、君の記憶になくても恐れることはない。実際、君が幼いころに会って以来、親交がなかったっていうんだから。いいか、怯《おび》えるな。ひとまず彼女と話し合ってみろ。君の将来について」
ドクターは、俺を励ましてくれているみたいだった。アドバイスをくれようとしている。
「それで、困ったことがあったら、ここへ帰ってきたらいいんだ。ここは、君の故郷だ。故郷|忘《ぼう》じ難し、と昔から言う。故郷《ふるさと》は遠きにありて思うもの、おっ、これはちょっと違う。とにかくだな、いつだって、ここに私がいる」
ドクターは両手で、そんなに大きくはない両手で、結構大きい俺の両手を包み込もうとすんのよ。なんか、芝居がかってる。
満足気だったのが急に怒りだしたり、面倒くさそうにしてて、とたんに真剣になったり。かと思うと、こんなふうに、妙にやさしい感じになったり。
こいつの感情の変化には、ついていけない。
「君の心配もわかる。ずっと会ってない叔母さんと暮らすわけなんだから。考えてみれば、日本人の親戚づきあいも、ひどくなったもんだ。人情の薄さは紙のごとし。そこへいくと君の好きな北島三郎の時代はよかった」
ドクターは、俺の手を握ったままだ。
「そうだ、彼の名曲にもあるだろう。知ってるかな?」
背筋を伸ばしたドクターは、息を吸い込んだ。
「帰ろかなあー、帰るのよそおかなあー」
同じフレーズを二回、ゆっくりと引き伸ばすように歌うと、
「こんなふうに、ためらいながらでもいい。ここに、診察室にもどっておいで」