彼女が右手を差し出す。
また握手か。俺も右手を出す。必要以上に力を入れないように注意する。
やらされたカード処理テストだとか、なんかの認知ゲームとかいうやつ以外にも学習能力があるってとこを、ドクターに見せておかなきゃ。
「高橋進です。よろしく」
「あなたの叔母の眉子よ。よろしく」
ドクターが大袈裟に手を広げた。
「おい、驚いて欲しいな。このひとが君の叔母さんだっていうんだ。なんで、そんな平然としている。そうか、意味記憶の欠落か? 君の脳には、『叔母』という単語は入力されていないのか?」
ホントに、ばかにしないでほしいよね。
俺は、ドクターに言ってやった。
「そのくらいの言葉、知ってるに決まってますよ。『叔母』っていうのは、父親の姉妹か何かでしょ。あ、母親のでもいいのか。その、女のきょうだい、っていうか、姉妹で……。ああ、めんどくさい」
俺がしゃべる言葉に、握手を終えた目の前の「叔母さん」は、いちいちうなずいてくれている。
だけどね、ドクターは、なんか妙に入れ込んでいるみたいなの。頭に両手をあてて首を振った。興奮するなよ。
「やっぱり、常識に関しては、君には欠陥があるのやもしれぬ。両親いずれかの姉妹だというのなら、ある程度は、十八歳である君の両親に近い年齢であると考えるのがふつうだろう。彼女は、十五歳なんだ。不思議には思わんのか? まったく君に関しては、いろんなことが起こる」
「あら、そんなにおかしなことではありませんよ」
叔母さんが口を開いた。眉子叔母さんね、十五歳の。
こっちは冷静。かっこいいじゃない。
「私の姉は若くして進君を産んで離婚、進君はお父さんにひきとられ、彼女は両親のいるキャリフォーニァへ渡ったんです。私は親が年を取ってからの子供で、年齢は離れていても進君のお母さんと私は姉妹の関係。私と進君は、叔母と甥《おい》の関係です。どこにも矛盾はない」
ドクターは、両手を上に向けて肩をすくめた。
眉子叔母さんは、そんなドクターを露骨に無視した。からだごと、俺のほうに向きなおって話を続ける。
「その後、私たち家族はバルセローナへ移ったの。本来なら姉がここにいるべきなのだろうけれど、彼女は画家として大作に取りくんでいてアトリエを離れることができない。両親は高齢だし、代理として叔母である私が来たのよ」
ドクターは、首を左右に振って、さもあきれたという顔をしてみせる。
「というわけだ。事故で亡くなられた御両親とは別に、君には実母がいた。彼女は、その妹だそうだ。君が彼女を覚えていないのも当然だ。彼女のお姉さん、つまり君のお母さんが、一時帰国して日本で最後に君に会ったとき、君は三歳。一緒にいた彼女ときたら、乳母車の中だったそうだ。ということは、彼女の方でも君のことは、もちろん記憶にない」
「いいえ、私は覚えています。三歳の半ズボン姿の進君を。私は生まれた瞬間からの鮮明な記憶があるの」
眉子叔母さんは、きっぱりと宣言した。
「ハッハ、これは本当の驚きだ。何を言い出すやら」
ドクターは、笑いをこらえるような、皮肉な表情を浮かべる。
「赤ん坊に記憶する能力があることは、すでに実験的に証明されているじゃないですか。生まれたときから自分の母親を認知し、記憶する力がある。それを言葉で表現できないうちに、赤ん坊は記憶を失っていく。なかには例外的に、すべてを覚えている子供がいることが報告されているでしょ?」
まったく冷静に、流れるように叔母さんはしゃべった。
たいしたもんだ。
「出産時に、喜ぶ母に対して父がどんなにうろたえていたかなんてことも、私は覚えてる。あなたには、赤ん坊の記憶力に関する、その程度の医学的知識もないの? そんなひとが私の甥の治療にあたってたなんて。日本ていうのは、姉が言っていたとおり野蛮な国なのね」
ドクターの顔が、パッと赤くなった。
「あ、いや、理論的には知っている。可能性としては、十分に起こり得ることだが……。私をだれだと思っている。しかし、現実に、実際の具体例としてそんなことが、そういう想定は、日常には……」
ドクターは、しどろもどろ。
いやあ、お見事。拍手しようかと思ったね。
「さあ、行きましょう」
眉子叔母さんは、俺に向かって言った。
「こんなところに長居する必要はないわ」