「行くって、どこへ?」
病院の廊下を歩きながら、俺は叔母さんに聞いた。
「あなたのアパートメントに決まってるでしょ。あなたは、この街のセントロ、日本語では、中心部? で、ひとり暮らしをしていたんだから」
一階の受付で支払いを済ませる。叔母さんはカードが使えないことを嘆いた。
「医療費は保険会社に請求されるの。当座の諸費用のみの精算なんだけど、日本の紙幣ってサイズが大きくて、数字の桁《けた》もすごい。その割に価値がないから、なんかとても損してるみたい。ユーロに比べると後進国って感じ」
叔母さんが領収書を受け取っているのを見ながら、俺は、自分が金を持ってないってことに初めて気づいた。
安心したのは、その、眉子叔母さんが文句言ってるお札と釣りの硬貨。なんか見覚えがある。数字とその計算も、たぶん、できるな。
いちばん困るのは、俺が、何を覚えていて何を忘れているのか、その自覚がないってことだ。
こんなね、窓口での支払いみたいなことにも、ひとつひとつ、慣れてかなきゃならないんだろう。小学生なみだぜ、記憶喪失のあとに生きていくってのは。
ま、いいけど。
眉子叔母さんは、早足で病院の玄関に向かう。俺は、ちょっと遅れてついていきながら、自分を慰めてみたの。
きっと、こんなのって、全部、時間の問題、だって。
叔母さんはさ、ピンと背筋を伸ばして、俺から見たら自信満々っていう感じで歩いてる。すぐに、あんなふうになれるかはともかくとしてさ、俺、言葉とかいろんな面で、どんどん回復してきてるでしょ。
そうさ、だいじょうぶに決まってるぜ。
結局は、すべてが、単に時間の問題。
「姉は言ってたのよ、実母である自分が日本に行かないことを冷酷だって感じないでほしいって。ましてね、それであなたが不幸な境遇にいると思いこまないでほしい」
タクシーの中で、叔母さんは説明を始めた。
「いま姉がアトリエを離れられないってことは、さっきも言ったけど……。え? あなたのお母さんは絵を描いてて、スペインでは名前も売れてきているわ。あなたの記憶にはないのね。もしかしたら、もともと知らなかったことかも。離婚しているから、亡くなられた御両親との間で複雑な事情があってもおかしくないわね」
俺にとっては、すべてが新しい情報だ。
「それで、事故のあとの処理は、姉が手続きを進めたのよ。契約していたあなたのお父さんの顧問弁護士との間で。あ、私もアボガダを目指しているの。そう、アボガダっていうのは、スペイン語の弁護士ね」
しゃべりながらも、クルマの窓から、叔母さんは街の様子を興味深げにながめている。病院のある郊外から、都心へと向かっているようだ。
俺も、関心がないわけではないのだけれど、窓の外のもの、そのすべてが速すぎた。
静かな病室を出てみると、街には音があふれていたし、行き交うもの、全部がとんでもない速度で動いているように感じられる。
まぶしすぎてね、頭がもう、クラクラ。
「私は自分で日本に来ることを姉に希望したのよ、あなたの事故の話を聞いて。異文化体験もいいかと思ったの。母国を知るってこと。現在、私は三重国籍みたいな状態。成人するときに、出生地であるアメリカか滞在してるスペインか、それとも両親の属している日本かを選べるはず。いまのところ、日本の可能性は限りなくゼロに近いけど、二日目で判断するようなことじゃないわよね。昨日着いて、こちらのアボガド、あ、アボガダの男性形ね、日本の弁護士に会っただけなんだから」
タクシーが停まる。俺が先に降りた。
ここが俺のいたところなのか。
気がつくと、俺の横で叔母さんも建物を見上げていた。
「あなた、こんなとこに住んでいたの?」
「さあ」
「さあ?」
「覚えがない」
眉子叔母さんは、肩をすくめる。
そうだったわね、と言って階段に脚をかけた。
歩道から階段をたっぷり一階分は昇らないと、エントランスにたどりつけない。建物の上の方は、硝子《ガラス》の面が太陽の光を反射していて、まぶしくてよく見えなかった。
「入りましょう」
回転扉の横で、ガードマンが叔母と俺に会釈した。
エントランスの正面は噴水になっていた。吹き上がった水を、水盆が受け止める。その水盆から、また滝のように水が流れ落ちて床でプールになる。
噴水をひと回り、俺は水の動きをながめた。
きらきらしてね、とってもきれいなの。
水盆から流れ落ちてる水は、あふれてまっすぐに落ちるだけじゃなくて、一部はその青緑色した水盆の外側の形に添ってまわりこんでいる。
つまりは、重力の法則に逆らってるわけで、ながめていたら、「分子間力」って言葉が頭に浮かんだ。どういう意味だったっけ? 水の分子と分子が引っ張りあって、まわりこんで流れ落ちるのか?
それから、しばらくして、また、「表面張力」って思いついた。これ、テーブルの上にこぼれた水が盛り上がってるようなやつだよな。その力で、水が水盆から離れないようになっている?
あれ、「毛細管現象」とかいうのも、小学校か中学でやったよな。関係ないか。
よく、わからなかった。ひとつだけわかったのは、やっぱり俺は、怪しい手紙に書いてあった「科学の天才」なんかじゃなさそうだってことだけだ。
噴水を吹き上がってくる水はつながっているのに、頂点に達したあと落ちる水は、ばらばらに千切れているように見えた。
それが水盆の中で再びつながり、水盆から帯になって落ちる。その水の帯を透かして入口の明るいほうを見ていたら、眉子叔母さんがもどってきた。
吹き抜けになっているロビーの奥に、フロントがあった。そこで、部屋の位置を教わってきたんだって。
「このフエンテ、日本語では、えーと……、あっ、噴水っていうの? とってもスペイン風ね。アンダルシーアのパティオにありそう。それが、あなたのアパートメントのエントランスに設置されてるなんて、これは何か、不思議な偶然の一致を感じるわ」
そう言ってから、俺をうながした。
エレベーターに乗って、叔母さんが押した数字は16。
そこにあるパネルの数の中では、いちばん大きい数字だった。俺の文字に関する記憶が間違っていないなら。