「ドクター、俺は、自分がわからないんです」
「ほお、そうかね。それは、またご大層な。自分をわかっている人間なんて、いったい、この世のどこにいる? お会いしたいものだ」
ヒゲに手をやる。
「いや、そういうレベルの話じゃないんですよ。俺は事故にあって記憶を失う前は、陸上競技の選手だったらしい。素質を見出だされて、それでクラブチームにはいった」
「ほーお。よくわかっとるじゃないか。たいしたもんだ。記憶喪失のクランケとしては、上々の部類だな。それで?」
相変わらず、感じ悪いの。
「ところが、トレーニングに行ってみて、俺はスパイクという言葉を思い出せなかったんです」
「それは、よくあることだな。私なんて、毎日、いろんな言葉が思い出せん。仕事のときは比較的大丈夫だ。ところが、この前は、なんだったかな。そう、食堂ですわって、ハンバーグというのが思いつかなかった。あの肉をミンチにして、こねたやつだな。ウェイターに説明するのに苦労した。物忘れというのは、誰にでもある」
「いや、たぶん、これもそういうレベルの話じゃないんですよ。俺は、そのスパイクという言葉が何を指すのかとか、そのスパイクはいつ使うものなのかとか、全然、思い出せなかった。毎日履いてたはずなのに」
「はーあ」
ドクターは椅子の背にもたれかかる。
「それはな、我々は君に関して嫌というほど経験してきたことだ。いいかげん、君も理解してたはずじゃなかったのか? いいか。記憶には様々な種類がある。君はどうやら未来への記憶は問題がないようだ」
「未来への記憶?」
「そういう表現はしなかったかな。つまり、先の時間への記憶ということで、君は事故以降に起こったこと、知ったことは覚えていられる。いま私と会って話したことを、明日になって忘れたりはしないってことだ。意識が回復してから行った様々なテストの結果が、それを証明している。日常の生活でも、そうだろう? 覚えてられているだろう?」
「はあ、そうですかね。だいたいは覚えてるような気がしますが。だいたいは」
「だいたいでいいんだ。むろん、だいたい、で。人間は、すべてを記憶する必要はないんだ」
ドクターは、手に持ったボールペンを振り回す。
「となると、過去の記憶、事故以前の記憶が問題になるのだが、君は、いわゆるエピソード記憶は、ほぼ完全に失っているようだった。このエピソード記憶っていうのは、簡単に言うと、過去に自分にどんなことがあったかというような記憶だ」
ドクターは説明する。
でもさ、こいつはさ、なんていうか、症例を語ってるだけなの。学会とかで報告するみたいにね。
俺にとっては、それは、ほかならない、自分のことなわけ。完全に失った、とか言われると、ちょっとねえ。
「言葉に関して、君は、当初、ひどい欠落があった。これは意味記憶という領域だ。スパイクぐらいなんだ。事故直後の君は、ハンバーグはおろかミソシルとも言えなかったはずだ」
ドクターは、俺の顔をのぞきこむようにして確認をせまる。
「ミソシルですか?」
「そうだ。きっと、オニギリも」
「オニギリ」
俺はドクターの言葉を繰り返す。
味噌汁《みそしる》とお握りを知らなかった自分をイメージするのは難しい。
考えてもごらんよ。いったん知ってしまう(思い出してしまう)と、知らなかったときの自分っていうのは、実感を伴わないでしょ。
しかも、その知らなかった自分ていうのは、事故以降の自分だ。となるとさ、俺は事故のあとのことでも、さっきドクターが言ってた未来への記憶でも、一部は失ってしまっている、ということになるんだろうか。
あー、複雑。
もう、いいか、こんなこと。
「おい、ミソシルとオニギリだぞ。もしかしたら、いまでもわからんのか?」
「いいえ、わかってますよ」
「おう、よかった。最近の若者は和食のよさを知らんのかと思った」
ドクターは、話を進めるぞ、と言った。
「で、君は、意味記憶に関しては急速な回復を示した。そのとき、理解可能な言葉のカテゴリーについては、まったくランダムな取りもどし方だった。むしろ、抽象語に強い印象さえ私は持ったな。だから、スパイクなんて日常の言葉を忘れていても、まったく、徹頭徹尾、私は驚かん。そして、そのスパイクの用途に関しても、別に忘れていてもおかしくない。君は、意識が回復した日、スリッパを両手にはめておったじゃないか。手袋みたいにして」
ドクターは、おかしそうに笑う。
鏡があったら、真っ赤になった俺の顔が映ってたんじゃないかな。
たしかに覚えていたんだ、ぼんやりとだけどね。スリッパを手にはめて、リズムをとってたたいてた自分のことを。
一気に元気がなくなっちゃった。
それでもね、ともかく、最後にグラウンドで起こったことを説明したのよ。そう、暴走事件。
ドクターは、それにも動じない。
「単に刺激が強すぎたのだろう。あのコーチとやらが、やはり間抜けだったんじゃないか? 一度に与えられた刺激が大きすぎて、パニックになった。それまで君は、ピストルの音に素早く反応して飛び出す訓練を積んでおった。だから耳もとで起こった音に走り出してしまった、それだけのことだ」
ドクターにとっては、そんなふうに、すべてがはっきりしている、明瞭《めいりよう》なことなんだろうか。
「陸上競技にとらわれることはないんだぞ、そもそも。君は事故で記憶をなくした。それを過去を失ったと考える必要はない。過去から自由になったと思えばいい。現時点でだな、好きな過去を、好きなように選択したらいいんだ。お気にめすまま、お好み次第。ふつうは未来しか選べん。君は、過去を選択できる。なんたる特権だ。記憶喪失、万歳! ビバ、記憶喪失! ビバ、ビバ! それというのも交通事故のおかげだ。なんと素晴らしい。こんな幸福はない」
何、言ってんだろね、こいつは。
ほとんど、狂ってるんじゃないか?
「これからも、いろんなことが起きるぞ。よくわからんことが、いーっぱい。ビバ、ビバ。いちいち驚いていてもしょうがない」
「そんなね、俺としては……」
ドクターは手で制止した。
「いいか、そういったことを楽しみたまえ。私からのアドバイスだ。君は幼児になったと思えばいいんだ。身長百八十八センチの赤ちゃんだ。となると、きっと世の中は、新鮮でおもしろいぞお」
俺は、返事する気にもなれなかった。どう考えても、あまりおもしろいこととは思えない。
それでも、診察のお礼を言って立ち上がった。ま、挨拶ぐらいちゃんとできるところは見せておかないと。
だって、赤ん坊じゃないんだぜ、俺は。
「そうそう、バルセロナの叔母さんとやらは、どうしている? あの古風な名前の叔母さんは。今日は、来とらんのか? 彼女にも、何が起きても心配しないようにと言っといてくれ。まあ、そんなこと言わんでも、根性のすわってそうなやつだったが」