俺は、駅に向かって歩きながら、ドクターの言った言葉を振り返ってたの。
選択可能な過去なんていうのは、屁《へ》理屈の気がしたね。
でしょ?
俺が欲しいのは、たったひとつだけの、きっちりと確定した過去だ。本当の俺が生きてきた、事実としての過去。
たぶんさ、あんなこと言い出したのは、あいつの、あのドクターの過去ってやつが、きっと、たいしていいもんじゃないんだろうな。
だからね、自分が過去の選び直しをしたいのよ。間違いないって。
それより、俺にとって大問題なのは、これからのこと。ドクターの説明だと、グラウンドであったような、変なことが起こり続ける。
そんなもん、幼児のように楽しめって言われたって、全然、嬉しくないぜ。すげえ無責任な発言だ。だけど、あいつにしたら完全なひとごとなんだから、まあ、当然なのか。
そんなこと考えてたら、
「キャッ」
短い、かすかな悲鳴が聞こえた。
駅のロータリーの、向かい側だろうか。横断歩道のあたり?
「ドロボー!」
今度はもっとはっきりとした声。
「ひったくりだ」
「え、ひったくり? どこ?」
走り去ろうとする男の背中が見えた。
とりあえず、俺のからだが反応してしまった。俺は、二メートルほどの幅がある花壇の植え込みを、その場でジャンプして飛び越えた。
両足踏み切り、立ち幅跳びね。
車道に飛び出す。
クルマの急停止のブレーキ音とクラクションが聞こえたけれど、ロータリーを斜めに横切る。タクシーとバスの間を抜けて、男を追った。
すると、ぐんぐんと距離が縮まって、すぐに追いついてしまった。
となると、どうしていいか、よくわからない。
俺は、男の横に並んで走った。
「あの、もしかしたら泥棒のひと?」
話しかけると、男はびっくりした表情。
「もし、そうなら、返した方がいいんじゃないですか?」
同じスピードで併走しながら言った。
返事してもらえないの。
男が必死になって速度を上げようとしたんで、俺は男の前に回ってみた。
男の顔を見ながら、後ろ向きに走る。
「返さないの?」
男は、あっけにとられたようだ。
「お、おまえ、何者だ?」
ひきつった顔。息を切らす。
「難しいこと言うなあ。俺も、自分がだれなのか、よくわからないんで」
男は、突然、立ち止まった。
後ろ向きに走っていた俺は、倒れそうになって急停止。男は、無言で俺にバッグを押し付け、逆方向へ再び走り出した。
もう一度、追いかけるべきなのかなあ。
よくわからないまま、突っ立ってたのよ、俺。そしたら、しばらくして、女の人が小走りでやってきた。
「ありがとうございます。取り返してくれて」
すげえ派手なピンクのジャケットを着ている。
俺は、バッグを手渡した。
だって、たぶん、このひとが持ち主だろう。
眉子叔母さんだったら、証拠はないって言うかもしれない。こういう場合には、バッグの中身を見て、本人確認をすべきだと。
「あなた、高橋くんね」
確認をされてしまった。
たしかに、俺は高橋という名字のはずだ。
それだってね、理屈を言えば、意識を回復してから教えられたものだ。本当に自分が高橋かどうかの確信は、俺にはない。