「ずいぶん遅かったわね。それで、どうだったの? ドクターは、なんて言ってた?」
アパートメントに帰ると、リビングのソファにいた眉子叔母さんが聞く。
「たいしたことじゃないって。これからも、ああいうことはあるって。それから……」
「それから?」
「叔母さんに、よろしく」
叔母さんは、軽くアゴを突き出した。
これって、クセみたいね。十五歳にしたら大人っぽい仕草だけど、かわいいって言えないこともない。
「ふん。私はあのドクターは、全然信用していないから。通院を続ける必要があるかどうか、あなたも検討したら?」
眉子叔母さんは、警戒するように脚を組み替えた。
俺は、その問いかけには答えずに、手と顔を洗いに洗面所に行った。これは、どうやら、事故に会う前から身についていた習慣の気がする。
リビングで俺を待っていた感じの眉子叔母さんに、俺は聞いた。
「俺のこどものころの写真だとか、そういうもんはどっかにないのかな。ほら、卒業のアルバムとか。記録みたいなもの。そういうの、残ってないのかな?」
叔母さんは首をかしげる。
「このアパートメントにはないみたいだから。俺の両親の住んでた家には、あったりしない?」
「あなたのご両親の家は売却処分。日本のアボガドによるとね。あなたのお父さんの遺言に基づいて」
「遺言? 交通事故なのにそんなものが? ガンにでもかかってたのかな」
「よく知らない。手回しのいいひとだったらしいわね。自分の死に備えて、アボガドと常日頃から密接な連絡を保っていた。もっとも、それって、ヨーロッパのある階層の家庭では、ごくふつうのことよ。そして、あなたの不在の約一ヵ月の間に、予定通りすべてが処分された」
俺は、ソファに深くすわる。
俺が手繰り寄せようとする糸の先には、何もついてない。
逆に、叔母さんが身を乗り出した。
「写真なんて必要かしら。あなたには十分な遺産があるんだから。この部屋には、レジデンシアには二十年間の賃借権があって、その料金が支払い済みになっている書類も、私が最初に確認したわ。アボガドのところで。その時には、こんな豪華な建物とは思わなかったけど」
なんか、眉子叔母さんたら、説明に気合いがはいってる。
「銀行の預金残高も見た。相当の額だったわ。実は、他にもまだ相続の手続きの問題とかが残っているの。本来なら、あなたはアボガドに会いに行くべきなのよ。あの、あてにならないドクターのところなんかじゃなくて」
俺は首を振った。
ちょっと、待ってよ。いま、これ以上、知らないひとに会いたくなんかないの。複雑なことは、もう少したってから。
眉子叔母さんは、しばらく黙っていた。
それから、静かに話し始めた。
「あなたは、文句を言う筋合いではないと思う。これだけの遺産を持って、十八歳のスタートができるなんて、恵まれた人生じゃない?」
恵まれた人生?
記憶喪失なのに?
しかも、十五歳の叔母さんに言われてしまいました。
「俺には記憶がない。記憶だけじゃなくて、記録もない」
「あのね、そんなことに何の意味があるの? 写真とか記録とかが見つかったら、あなたは、それに沿って生きようとするの? いままでの自分に合わせて、その延長を生きようとするの? そんな人生がしたい?」
俺を説得しようとする。
アボガダ志望の叔母さんは、もともと討論が得意なんだろう、とっても元気だ。
それに、正直なところ、結構、いいことを言ってはいる。あんまり認めたくないけど。
「記憶や記録がなくたって、いまから生きればいいでしょ。過去と関係なく未来を生きれば」
眉子叔母さんは、俺の返事を待つ姿勢。
俺は、言いたいことを、頭の中で整理しなければならない。
それはね、叔母さんが、生まれた瞬間からの記憶が持続しているっていう叔母さんが、自分の過去に自信があるから、言えることなんだ。
過去がわからないっていう不安。それは、過去を失ったものにしか、わからない。結局、叔母さんにしてもドクターにしても、記憶喪失は、「ひとごと」なのだ。
叔母さんの声のトーンが切り替わった。
「でもね、あなた、写真なんて、なんで、そんなこと急に言い出したの?」
で、俺は説明せざるを得なくなった。
「ひとに出会ったんだよ。偶然、知っているひとに。もちろん、相手が知っているんで、俺は知らない」
「それで?」
「前に恋人だったって言うのよ。俺のほうではさ、もちろん、全然、覚えてない。それで食事に行こうって言われて、メシ食ってみても思い出せない」
「それで?」
「そしたら、その女が、寝てみたらわかるんじゃないかって」
「それで? 言うとおり寝たっていうわけ?」
俺は、うなずく。
「でも、何も思い出せなかった」
眉子叔母さんは、勢いよく立ち上がった。
「あきれるわ。退院してすぐにサリナが来たと思ったら、今度は、昔の彼女が出てきて、ただちに性交渉を持つ。あなたは、動物なみね。みさかいないの?」
叔母さんはとても怒っているみたいだけれど、何が悪いんだ?
俺には、わからないぜ。
だって、元恋人っていう女が現われる。記憶がよみがえるかもしれないから、試しにセックスしてみようって言われる。
そしたら、ふつう、するよね?
「本当に、あなたってひとは。パーソナリティを把握する努力が、私にはまだまだ必要だわ。後見人の職務を果たすにはね」