「そうだ。森進一だ。あいつは昔から、森進一の大ファンだった。俺が北島三郎の方が、はるかにいいって言ったら、怒ってな。愛し合うふたりの結婚は、完全な破局を迎えることとなったのだ」
なんていう離婚の理由だ。
背骨から力が抜けた。
「そんな、くだらないことで? そんな、つまらないことで、別れた?」
俺は、あきれてしまった。
「ばか。くだらなくなんか、ない。音楽は、ひとの心の中で世界観を形成するんだ。慧は、よく言っとったな。かつては、ビートルズがローリングストーンズが、文字通りこの地球の表面のすべてを変えてしまったとか。
「すべてではない。日本には、日本人の心を歌う音楽がある。北島三郎は、日本の音楽の世界の至宝だ。戦後の日本の歌謡界のカリスマなのだ。おまえは、そんなことも理解できんのか。
「北島三郎は、サブちゃんはだな、男は男らしく生きねばならぬことを、歌を通じて訴えかけた。あの、すばらしく艶《つや》のある、天地をも揺り動かす歌声を通じて。戦後の日本のオピニオンリーダーなのだ。時代を駆け抜けた男なのだ。
「だからこそ私は、MSUに走ろうとするおまえに、サブちゃんを聴かせた。北島三郎の歌声だけが、おまえを、カルト宗教にいかれてしまいそうなおまえを現実に引き戻すことができる。そして、それは、実際に、そうだったんじゃないのか?
「北島三郎を聴いていたころに事故にあったおまえは、記憶を喪失し、二度とMSUに魅力を覚えなくなった。
「催眠と呼びたければ呼べ。マインドコントロールでもいい。洗脳だって、かまわん。定義は、どうでもいいんだ。北島三郎サブリミナル効果が、おまえを立ち直らせる。
「話をもどすぞ。慧にとっては、森進一が、私にとってのサブちゃんのような存在だったのだろう。いまとなって言えることだが。
「その日、私は北島三郎を高く評価したんだ。酔っていたのもあった。仕事のストレスもきつかったころだ。いや、それが言い訳に過ぎないのは、わかっておる。
「私は、口汚くののしったんだ。サブちゃんに比べたら、かすれた、悪声の森進一なんか足もとにも及ばないって。そしたら、慧は、一週間、ひとことも口をきかなかった。そして、書置きも残さず出ていってしまったんだ」
ドクターは、言葉を切った。考えこんでいるように見えた。
あるいは、過去の思い出、俺には持つことが不可能な過去の思い出のなかに沈み込んでいるような。
と、突然、ドクターは、机をたたいた。
目は、怒りでギラギラと燃え上がっていた。
「おまえは知らんと思うが、だいたい、MSUは、もともと森進一のファンクラブだったんだぞ。森進一が森昌子と結婚したことに抗議し、ファンクラブのなかの過激派の慧たちが地下活動にはいった。そのときの名が、MSU。すなわち、MORI SHINICHI UNDERGROUND」
ドクターは立ち上がった。
両手のこぶしを握り締め、突き出すようにして歩く。
「いいか、リーダーとなった慧は、その後、MSU研究所をスペインで設立した。そして、布教活動にはいった。それを聞いて、私はめちゃくちゃ腹が立った。で、KSIを作ったんだ。KITAJIMA SABURO INTERNATIONAL。
「どうだ? いい名前だろう。北島三郎という、美しい、均整のとれた日本の固有名詞と、インターナショナルという外国語が共鳴する。
「なぜ、インターナショナルというかはだな、当時、医局に留学してたコリアンであるキムくんと、ふたりで創設したからだ。演歌好きのよい青年だった。しかし、KSIの設立後まもなくしてアメリカへ渡ったキムくんは、なんと、黒人のラップのファンになったという。あの騒々しい、ラップミュージックのファン。
「転向だ。許せぬ志操のなさ。志操のないのは思想犯だ。ハッハ、ハッハ。おもしろい。それを聞いた私は、ただちにキムくんを除名した。KSIからの永久追放という最も重い処分だ」
狂ってるね。
ドクターは、完全に、狂ってる。
俺は、立ち上がった。
これ以上、聞いている必要はない。
「それでKSIはだな、反MSUの活動を展開し、支持者をふやしていく。MSUに家族を奪われた被害者の会は、実質、KSIが組織してるんだ。私は、その我がKSIの最高顧問としてだな……。
「おい、なんだ。帰るのか。待て。記憶喪失になる前の、おまえの過去のことなんだぞ。おまえが、あんなに知りたがっていた。それを、いま、教えてやってるんだぞ……」
俺はドアを開ける。
過去なんて、いらない。
さよなら、ドクター。二度と会うことはないだろう。
あるいは、俺は言うべきなのか? さよなら、お父さん、と。お父さんかどうか、結局わからない、俺の父親。
「おい、ひとの話は最後まで聞くもんだ。慧は逮捕された。MSUは解散だろう。だったら、残念ながらKSIもだ。存立の基盤を失う。
「それで、おまえは、どうする? これから、どんなふうに生きていくつもりだ? おい、あてはあるのか? これからの、おまえの……」