ぼくの二十歳の誕生日は、当人が思い出しもしない間に過ぎてしまった。敵と遭遇し毎日激しい銃火を交えていたからである。相手は北シナの共産八路軍の中では精強を以て知られた李雲祥少将の直轄軍であった。
戦闘が終って、何人かの同年の友を骨箱にして胸に抱き、誕生日から半月後の五月中旬、中隊の基地のある村へ戻ってくると、軍曹に昇進の命令が来ていた。『乙種幹部候補生』の肩書きがあるため、只《ただ》の軍曹よりは若干権威は落ちたが、兵・下士の間では二番目の高官である。同時に分隊長として十二名の部下を預かる身になった。
現地で召集されてからまだ一年と少し、連日の小戦闘で先輩の消耗の激しかった前線部隊だからこその異例の昇進である。
その部隊は独立旅団という集団だったが、軍隊用語では『乙種編制部隊』と呼ばれていた。戦闘部隊なら必ず天皇から賜わるはずの軍旗がなかったし、将校の殆《ほとん》どは乗馬を持たず、小銃の半分は八路軍からの鹵獲銃《ろかくじゆう》で、兵はシナ鞋《ぐつ》を履いて山地を駆け回った。ぼくは小学校以来この乙という字には縁が深い。
北京市周辺の警備を受け持っていた旅団は、八月に入ると、貨物列車に乗って移動した。汽車は深い山脈の間を丸一日走って停《とま》った。新しい警備地域は、シナと、満洲(現中国東北地区)と、内蒙古との、三国の国境にまたがっている万里の長城だった。ぼくの中隊は、一番満洲国側に突出した地域を受け持ち、分隊|毎《ごと》に五百メートルに一つある望楼に分駐した。兵隊たちの間に何か大きいことが近く起るらしいという噂が拡まり落着かない。軍曹とはいっても年次としては初年兵も同然の身では、古参の十二名の兵の統率などは不可能であった。
このあたりの長城の塀の上は、トラックが通れるほど広いので、司令部が充分に見通せる方角へ歩哨《ほしよう》を一人立たせただけで、後は皆塀の上で勝手に昼寝や花札などさせていた。
現実には敵の攻撃は全く無くなり、平穏な勤務が続いた。入隊以来毎日休みなく戦場を駆け回っていたぼくにとっては、久しぶりの骨休めだった。敵どころか、うるさい巡察将校さえ、もう何日も来ない。
十三日になった。
望楼の一番高い所で司令部を見ていた歩哨が、あわてて下りてきて報告した。
「分隊長殿、変です。汽車が動き出しました」
それまで、ぶったるんでいた兵士が、急に敏捷《びんしよう》に城壁にとりつき、並んで首を突き出して、はるか山の下の谷間にある司令部を見下《みおろ》した。操車場に溜《たま》っていた何十輛もの列車が、次から次へとシナ側に出発して行く。双眼鏡でのぞくと、列車の屋根や、石炭車の上にまで兵隊が我勝ちに乗りこみ、しがみつく有様がはっきり見えた。
「何だありゃー。うちの部隊の奴らだぞ」
「おーい。おれたちを置いていく気か!」
なぜ逃げるように去って行くのか不安だったが、何の連絡も届いていないし、勝手に部署を離れることは許されないので、どうしようもない。夕方までには、司令部のある谷間の町には、一人の兵隊の姿も見えなくなった。夜になって中隊間の連絡兵がやってきて、満洲側に突出したぼくらの二個中隊だけが置いていかれてしまったことが分った。
これが軍隊は運《ヽ》隊だという昔からのいい伝えの通り、運命の明暗をはっきり分けた。
シナ側に逃げ戻った旅団の兵隊は、その年の十一月には全員が祖国の土を踏んだ。残された二個中隊は、それから二年半以上の長い旅に連れて行かれ、沢山の兵が酷寒の土地で、飢え死にした。遺体は凍土に簡単に埋葬してきたが、もう犬に喰われて骨のかけらも残っていないだろう。
誰も未来のことは分らない。
翌日の十四日は、一日平穏であった。
十五日の朝起きて、何気なく城壁の下を見た分隊長のぼくは仰天した。それまで人の影が全く見えなかった、内蒙古と満洲国側の二つの正面は、敵兵の波で埋まっていた。何百台ものトラックに牽《ひ》かれた長身の野砲の砲口はすべて、ぼくらへ向けられて発射の態勢にあったし、何万人もの騎馬の兵士は、引鉄《ひきがね》をひけば七十二発の弾丸が即座に飛び出す短機関銃《マンドリン》を肩に掛け、城壁の下でひしめいていた。我が分隊十三名に対しての攻撃としては幾ら何でもオーバーだ。勿論命令があるなら戦いを辞する気持はないが、とりあえず左右の望楼の出方も見なくてはと思って双眼鏡を向けると、どこも呆《あき》れて小銃も向けずに覗《のぞ》いているだけだった。
血気にはやって勝手に応戦する者が一人も居なくてよかった。遠くへ逃げた司令部からこの朝やっと初めての無電の連絡があって、先任将校の老齢の予備役中尉が、俄《にわ》か作りの白旗を掲げて、城壁を下りて行き、折返し、降伏・武装解除が決った。これは、天皇陛下の命令だそうだ。
敵兵が回りで見守る中で、小銃を捨て、剣を吊《つ》った帯革を解くのは、何とも情ない思いの儀式であった。丸腰になったぼくらは、敵兵の銃剣に追いたてられて、満洲側から回送されてきた家畜運搬車輛に詰めこまれた。その日から六十日間の長い列車旅行が始まった。途中で満洲国側に駐屯していた軍人や、居留民団が乗りこんできて、その度に同じ部隊の人間は分散し、やがては誰がどこにいるのかさえ分らなくなった。
扉口にはロシヤ人ともシナ人とも違う、異様な顔の、揃《そろ》ってガニ股《また》の兵士が、一人ずつ警備についた。彼らは人員の数には極度に神経質だった。病死者や逃亡者が出ると、他の車輛から、かっ払ってきて人数を合せるところなど、日本の軍隊そっくりの慣習を持っていた。
乗客の方は誰もがこの汽車旅行は、日本へ帰る旅と信じていた。夜になってまっすぐ北極星へ向って走っていることが分っても
「一旦ソ連領へ入ってウラジオから帰るのさ」
そういって喜びあった。
この汽車旅行の途中で初めて、乗客たちに黒パンが配られた。軍隊言葉でいえば黒麺包《こくめんぽう》である。固くて酸っぱく、これまでの軍用常食と比べて、何とも異様な味がした。一口かじった瞬間吐き出した者も多かった。しかしやがて、それは大事な食糧になり、カステラより美味《おい》しく感じるように、皆がなっていく。
誰もが行く先を知らず、帰国を夢みていたとき、実はぼく一人は汽車がどこへ向っているのかを知っていた。
ぼくには軍に召し捕られる前の十八歳から十九歳までの一年間、黒い酸っぱいパンを砂漠の中で常食としていた時期があった。大学の予科に入った年に、軍にとられるのを怖《おそ》れるあまり、語学実習の名目で、大学から世話してもらって、内蒙古自治区の特務機関の下働きになった。だから蒙古語がほんの少し分った。
戦況が逼迫《ひつぱく》してくると、軍は現地で働いている壮年の男子を容赦なく召集していった。その上徴兵年齢引下げ令が発令されて、用心深く振舞って安全圏にいたつもりのぼくは内地にいた友人よりも早く網にひっかかり、近くの部隊へ入隊を命じられてしまった。徴兵逃れ工作は失敗したがそのため十五日の日に城壁の下で武装解除を受けたときに、この異様なガニ股の男たちの軍団が、ゴビの砂漠の向うに住むジンギス汗の直系に近い蒙古共和国の人々の集まりだと、言葉遣いからすぐ分った。列車に乗せられてもしばらくは、彼らの言葉など知らぬふりを通していたが、どこへ連れて行かれるのかが気になって、堪《たま》りかねて一度質問したことから、通訳代りに彼らの用をするようになり、その代り他の兵士の知らないようなことも教えてもらった。
蒙古共和国軍は八月九日からの満洲国侵攻に二万人を動員して従軍した。その褒賞《ほうしよう》として、同数二万人の人間を労役奴隷として本国へ連れて帰ることを、彼らの宗主国から許可されたのだ。
列車は満洲国の中央部を北上し、黒河の凍る前に外輪船に貨車ごと乗って渡河し、シベリヤ鉄道の線路に改めて乗ると、バイカル湖の手前まで行って左折して国境へ着いた。そこで二カ月の列車の旅を終った。全員がトラックに分乗し、丸四日間、家一つ見えない砂漠を走り続けて、やっと蒙古共和国の首都に着いた。それでもまだ兵士たちの大半は、この町は日本へ向う船を待つための臨時の宿泊地だと思っていた。
そこは山と川に挟まれた、意外に景色のいい平地であった。食事は黒パンが主になったので、一緒に入った人々は、まだ名も知らぬこの国を、黒麺包帝国《こくめんぽうていこく》と呼んだ。船便を待つための滞在と信じているから、皆従順であった。
その帝国……本当は大統領が統治する共和国であったが……は町の中央の川には清冽《せいれつ》な水が流れ、魚さえいたし、背中にあたる山には松の緑が濃かった。ただしこれは映画のセットのようなもので、町を一歩出れば、十日歩いても人家一つ見つからない岩だらけの荒地が続いていた。