砂漠をトラックで運ばれて、この首都に到着したときは、川の両側の平地には、白い|きのこ《ヽヽヽ》のようなフェルトの天幕と、朱塗りの柱のラマ教の寺院と、三階建ての政府の建物が三棟あるきりだった。
ぼくらは平野の周辺の十カ所の地点に、二千人ずつに分散させられた。野宿しながら、酷寒地での自分たちの寝る場所を作って行かなければならなかった。もう十月に入っていたから、野宿はきびしく逆に作業には熱が入った。
半ば凍りかけた土を、深さが五メートル、縦五十メートル、横三十メートルぐらいに掘る。上に板を渡し、土を薄くのせ少し水をかけると、忽《たちま》ち凍って固い屋根になった。穴の側面は風を通さない自然の壁であった。中に三段の棚を作り、二千人の兵士の住居ができた。
一緒に来た集団の殆どが、満洲国に駐屯していた軍隊の兵士だったので、部隊の先任将校の少佐が、将校団の中心になって指揮をとっていた。ところが輸送の途中で、この一団の中に、軍刑務所の囚人が合流したことが集団の秩序を変える原因になった。
この囚人たちは、俘虜《ふりよ》になると、自分たちがもう苛酷《かこく》な日本陸軍の支配から離れたことを知った。とたんに行動を起した。まず輸送中の列車の中で、これまで自分たちを苦しめてきた看守たちを夜になると次々と殺して、途中のシベリヤの荒野に投げ捨ててきた。そのため誰も彼らの素性に気がつかず、ただ何となく不気味な連中が三十人ばかり固まって居ると思っても、特別の注意を払わなかった。
それに川原の畔《ほと》りに宿舎ができ上るまでは、元囚人たちは、意識して目だたぬように働いていた。
宿舎が出来上って入居の日が来た。奥の特別室に少佐が入り、周辺に将校団の住居地域が定まり、そこだけは二段で回りは毛布で囲われていた。
他の者は、三段の棚に頭をこごめてもぐりこんだ。今はこの集団の一員になっているぼくもその一画に自分の分を指定してもらったので、おとなしく荷物を押しこみもぐりこんだ。
妙なことが起った。五分もたたないうちに、その将校たちが、それぞれ屈強な兵士たちに、襟を把《つか》まれ、肩を後ろから抱かれ、むりに中央の廊下へひきずり出されて、整列させられていた。少しの抵抗にもビンタがとんだ。
将校たちの脅しの叱責《しつせき》も、どなり声も、まるでその造反の兵士たちにはこたえない。
ぼくはびっくりして棚から顔を出して眺めていた。旧来の軍隊の常識では、考えられない異常なことが起っている。
三人の親分格の男は、黙って棒を動かして指示している。
三十人の元囚人たちは改めて一斉に将校たちを殴りにかかった。手には皆旧軍の私的制裁のときの常用器具であった革のバンドや、スリッパが持たれていたが、ふいをつかれた将校たちは素手であったし、それにもともと腕力ではかなう相手ではなかった。
抵抗もすぐ終って、皆が殴られっ放しの状態になったとき、初めて凄味《ドス》のきいた啖呵《たんか》がとんだ。
「こう! てめえらいつまで軍隊風を吹かしやがって、それが砂漠の真中でも通用すると思ったら大間違いだぞい」
この突然の混乱はぼくだけでなく、大勢いる兵士や下士官にも、あまりに意外すぎて理解できない。両側の棚で寝転びながら呆然《ぼうぜん》と見ているだけで、誰一人として飛びこんで将校を助けようとする者は出なかった。
哀れだったのはもう老齢の少佐で、途中まで突っ張っていた権威が崩れたとたん、泣き声を上げて許しを乞《こ》いだした。将校の殆どは血だらけになると、自分の血にびっくりして悲鳴をあげて逃げ回った。それを目の前で見て、これまで軍隊の内務生活で、上級者の苛酷な制裁に苦痛を示すことさえ禁じられて耐えてきた兵士たちが、軽蔑《けいべつ》をあらわにし、中には笑い出す者さえ出てきた。
代表者の目付きの鋭い男は、将校全員が血まみれで土の床に倒れた後、その頭を一人ずつ思いきり蹴飛ばして回ってからいった。
「こう! わいはな、播磨《はりま》の国では村田一家の盃をいただいた、赤穂《あこう》の小政といわれた極道や。こう! 今日からわいがこの宿舎の隊長や。文句あったらいつでも相手になってやるぞい」
革命は二時間しかかからなかった。
あっけにとられて見ているぼくの前で、新しい秩序が次々と成立して行く。二十人の囚人が、全員を百人ずつ分けた作業隊の長にそれぞれ任命された。傷だらけの元将校を含めた全部の兵士たちが、その下での服従を誓わせられた。勿論ぼくもその一隊に編入させられて只の労働要員の一人になった。
小政と二人の仲間が、少佐が入るために作られた部屋に入り、三十人の仲間は将校用の区画に居を定めた。寝場所がきまると、わざと班長に就任しなかった十人の元囚人と、三人の大幹部は直ちに、炊事の接収に出かけた。
多少の反抗はあったらしいが、悲鳴が少しの間、聞こえてきただけで戦いは終った。その夜のうちに炊事係は全員交替になり、十人の元囚人が炊事の全権を握って運営することになった。
これまで炊事は、帝国側から、二千名の昼食用に、四人で一本を定量として、二キロの黒パンを一日五百本ずつ、毎日受領していた。これを小政の一言で、翌日から五人で一本の定量に変更された。
これで一日百本のパンが浮いたが、それが三人の大幹部の独裁権力の確立と、三十三人の元囚人の新幹部団の体力確保や、権威の確立のための財源にされた。同時に、この帝国の管理者の将校や、警備の兵は俘虜同様に貧しかったので、小政は百本の半分は無条件に彼らに回してその信頼を得た。ぼくはこの小政のやり方を見て自分の空腹を忘れてひどく感心した。
少くとも小政は国や組織が成立するときの基本の条件を知っている。それとも、昔属していた任侠《にんきよう》の団体のしきたりに学んだのだろうか。日々余ってくるパンの在庫の確認や出し入れは、小政と他の二人の大幹部が必ず交替でチェックする、大事な専任事項となった。見事なほどの管理運営ぶりだった。
新しい秩序で収容所が動き出してすぐ、新幹部側が、将校服を大量のパンと交換するという情報をふれ回った。早くて二日、おそい者でも十日目には、金筋入り階級章や、参謀用モールのついた華麗な将校服を手放した。
新幹部の服装が急に立派になった。代りにこれまでの将校たちは、数日間の空腹を免れた代償として、揃って薄汚い官給兵服になり、一般の労働者たちの間にその存在を埋没してしまった。
将校服の中にも生地や仕立ての差がある。三人の大幹部は特にいい物を身につけた。しかもバンドを下腹のあたりまでずり下げて、裾をゴルフズボンのようにふくらませてはくと、その姿は一段と|さま《ヽヽ》になった。
管理者側の黒麺包帝国の将校は、宿舎内のクーデターが一夜でなったことを知らない。
軍人には将校仲間という一種の連帯感がある。共産革命理論で成立した国でも、将校には直接労役はさせず、兵の労働の監督にあてて楽をさせてやろうという配慮がある。ただし彼らには、日本人の名や顔の区別がつかないから、将校服を着てそれらしく振舞っている者が将校であった。
二十人の班長と、三人の大幹部は、将校服を着用し、太い棍棒《こんぼう》を持って、常に一般労働者を威嚇し、ときには容赦なく殴りつけ、作業を督励して能率を上げたから、この収容所は、帝国側からは、成績のいい模範収容所と思われていた。
指導者になった赤穂の小政の本職は博徒であった。終戦の日までは、満洲国の旅順の近くにあった陸軍|衛戍《えいじゆ》刑務所に、上官暴行罪で服役していた。
彼の体には肩から下腹、掌まで、さいころ、花札、本引札、トランプなどの刺青《いれずみ》がある。大幹部の二人も、博徒であった。祖国にいたときの極道歴が先輩だったので、義理堅い小政が自分と同格の指導者にした。指導者就任を記念して、三人は一緒に、ガラスの破片と消し炭で眉に黒く太く墨を入れて、顔に凄味を出したが、小政に比べると残りの二人の凄味はかなり落ちた。
この三十人の新幹部以外は、旧将校も、下士も、兵も、同じように皆労働に駆り出された。毎朝、集団が作業に出発するとき、小政は一場の訓示をするが、なかなかうまいことをいった。
「こう! つまりこれがほんまの民主主義や。こう! 分ったか」
この、こう! というのは、話の合い間に、顎《あご》をちょっと振り上げては頻繁に入れる、極道特有の、言葉にはずみをつけるための間投詞である。