首都とは名ばかりで、川の両岸にフェルトの移動天幕が並ぶ集落にすぎなかったこの平地が、都市らしい外観を見せだしたのは、その年の十一月から翌年の五月にかけて行われた、猛烈な労働の結果である。
十一月に入ると、二万人の人々の住居は、すべて完成した。お互いの連絡を絶たれていたので、孤立して暮していたが、十の収容所の人々の間にはそれぞれ独自の秩序が確立していたようだ。伐採、穴掘り、煉瓦《れんが》作りなど、作業の手順に馴れると共に、望郷の念は一入《ひとしお》だが、定着への諦《あきら》めも自然に湧《わ》いてきていた。
この帝国の代表者は、北にあるもっと強力な国家から、別に陸軍中将の位階を受けていて、二十六も勲章を持っていた。限られた胸幅に全部は吊《つる》せないので、会合ごとにどれを吊すかの選定が副官の大事な任務になっていた。閣下はその年から二十五年前に、革命軍を組織し、岩砂漠の拡がりを一つの国に独立させた建国の英雄であった。独立といっても背後の大国の共和国連邦の一つに組み込まれただけだが、このあたりではこれが最上の安定した国家存立の手段であった。
大統領閣下は、革命達成二十五周年を記念して、この川の両岸の天幕の集落を、自分がときおり参勤する大祖国のあのすばらしい首都と同じように、中央に分列行進ができる広場を作り、回りに官庁、大学、劇場などのある都市にしたいと考えた。
特に閣下が一番作りたかったのは、広場の中央に建てる自分の銅像であった。
いかなる権力者も寿命には勝てない。地下に眠った後でも、国民にいつまでも偉業を忘れさせぬためには、嘶《いなな》く馬の背に乗り、旗をかざして荒野を征《ゆ》く姿を、永遠に腐蝕《ふしよく》せぬ青銅に刻んで残しておくのが一番良い。
この計画は八月より前には考えることすら不可能だった。国をあげて外敵と戦っていたからだ。ベルリン攻略に動員された兵の全員を、八月初めに大祖国の軍と共同で東方に回送した。僅《わず》か九日間の進攻で殆ど戦うことなく得た大勝利と共に巨大な戦利品を獲得した。
秩序ある生活ができる知能の高い労働者を、二万人も持ち帰ったのだ。それをどう使うかは、すべて閣下個人の意志に任されていた。
この小国にとって二万人の労働者の運搬と定住は並大抵のことでなかったが、十月中にその作業が支障なく終了した。それは同時に新都市建設の成功を約束することでもあった。
閣下の所属する北の大国では、五月一日を一年のうちの最も重い意味を持つ祝日としていた。それで半年先のその祝日を都市の外観だけでも完成させる目標日とした。
閣下は決心した日から、日に二つか三つ、各収容所を巡り、労働者側の代表と会談して協力を求めた。十一月の四日には、閣下が高官を従えて、川べりにある収容所へ来るという通知があり、ときどきは通訳のまねをさせられていたぼくは久しぶりに作業免除を命ぜられ、朝から所内で待機していた。
もっともぼくは通訳のための勉強をしてきた人材ではない。入隊前の一年内蒙古にいて、必要に迫られて覚えた、ほんの片言程度の言葉しか知らない。日が経《た》つと共に未熟さがばれてきて、日蒙双方からの信用は殆どなかった。あくまで補助だった。これまで作業中行き交う他の収容所の兵士にぼくが聞いたところでは、どこでも通訳は将校なみの個室を持っており、労役を免除されている。だがぼくの所はそんなことはなかった。管理国側の将校はぼくにも一般の兵と同じ労働をさせたし、小政は囚人の仲間以外には、特別の待遇は一切しなかった。
この収容所の穴蔵兵舎の回りには鉄条網が張り巡らされ、四囲に物見の望楼があって、帝国の兵士は剣付鉄砲をかまえて、四六時中監視の目を光らせていた。奴隷集団の総員は首都の男子の数より多いそうで、おとなしく一カ所に縛りつけておき、相互の連絡を絶ち、暴動になるのを防ぐための警戒だった。
正面のすぐ後ろに、土壁に白|漆喰《しつくい》を塗った小屋が一つあり、収容所の監督将校の事務室と宿泊所になっていた。
午後一時少し前にはぼくと三人の大幹部とは、その部屋で大統領を待っていた。定刻に幕僚と共に入ってきた大統領は、そこに坐っている将校服の三人が、皆若くてしかも眉に黒く太い入れ墨があるいかつい顔をしているのを見て、一瞬|訝《いぶか》るような表情をした。管理者の将校は、革命のいきさつを知らないし、大量のパンで買収されているから、これが日本軍の代表者だと疑っていない。猪首《いくび》のがっしりした大統領に三人を隊長だと紹介した。その後ぼくの面目が潰《つぶ》れることが起った。俄《にわ》か通訳のぼくなど比べものにならないほど上手な蒙古人の通訳を、閣下は連れてきていて、初めからぼくの存在など無視して勝手に話をすすめていくのだった。
大統領に正対しても、小政は一つも臆《おく》することなくやり合った。もっとも両方を見ているうちに、自然にぼくは悟った。
この帝国の統治者と、収容所の統治者とは、お互いに指導する区域や人員の差はあっても、権力の属している基盤や、掌握の過程の中に共通する部分がかなりある。多分、精神構造もほぼ同じような人物だったろう。体付きや顔さえ似ていた。言葉の違いは少しも障害にならず、同志間の会話のように、二人の話は滑らかにすすんだ。勿論、閣下の新都市建設の計画は即座に賛成された。他の収容所と違い一言の抗議も質問もなかった。
「ようがす。赤穂の小政、生命《いのち》を張って引き受けまっせ」
感激したもう一人の大幹部がいった。
「そのためうちの兵隊が何人死んでも、そりゃこちらの問題で、あんたら気にかけるにゃ及びませんぞい」
小政が最後に胸を大きく叩《たた》いた。
「ようがす。わいも男や」
このとき蒙古側通訳から初めてぼくに質問があり、ぼくは三人の手前辛うじて面目を保った。蒙古人にはこの抽象的いい方が分りにくかったらしい。
「日本《ヤパネ》の通訳《ヘルミツチ》。これは、男という者は、一旦|引《キ》き受けたら、必ず働《カタラ》くから、安心しなさいという意味と思っていいかね」
そう確かめた。この国のどんなに上手な日本語の使い手も、必ずハ行の発音は、カ行の音になった。
閣下が帰ってから、誰もいない宿舎に戻るとぼくは作業免除を理由に毛布をひっかぶって寝てしまった。
明日から作業が強化されるきびしい日々が始まる。その中で一緒に働かされることを思うと、体中の血が凍るような絶望感が押しよせてきた。今でも力尽きて死んだ人の、痩《や》せ細った死体が固く凍って、中庭に井桁《いげた》に積んである。それが明日から増えるだろう。その仲間にされては堪らない。作業は体温を保つにも足りない食事で、風に耳を向ければ腐ってとれてしまうような酷寒の中で行われるのだ。もう恥も外聞もない。蒙古側や小政側のお覚えを目出たくして利口に立ち回り、体力の消耗をできるだけ避け、人より少しでも多く何かを喰べるチャンスを把《つか》むこと以外に生き残る道はない。
何としてでも生きのびて日本へ帰りたい。入隊前には触れることもできなかった黒いしなやかな髪の、袂《たもと》の長い着物を着た美しい日本の娘と無事結婚できる日がくるまでは、死ぬわけにはいかない。
翌日の朝は、いつもなら七時に鳴る起床・朝食の鐘が、五時になった。
ぼくは前日の会議で分っていたから、すぐ起きて、仲間の飯盒《はんごう》を持って炊事小屋へ歩いて行ったが、他の連中は信じられないのかぐずぐずしていると、新幹部が出て来て追いたてた。空はまだ暗く星さえ見える。大地は凍っていて、白い雪は氷のように固い。手袋が破れていたらそこから指がくさる。
炊事小屋の戸はいつものように開け放たれ、冷たい戸外に向って湯気が流れていた。分配用の前庭には、百人単位の班ごとに盛り分けられた粥《かゆ》の樽《たる》と、二十本の黒いパンがおかれている。当番は二十名のグループの中から一日二人が出る。一人が五個の飯盒をぶら下げ、もう一人が、四本の黒パンを両脇に抱える。パンは大きさが決っているから問題は少かったが、粥を飯盒にもらってくる者は大変な気苦労をした。
高粱粥《コウリヤン》のときなら、樽の上の方は水っぽく、列の後ろに回って底をすくってもらった方が喰いでがあるが、粟粥《あわがゆ》のときは上澄みが濃くて底が水っぽい。どちらか事前には分らない。運悪く水気の多い方を貰《もら》ってきたときなど、待っていた班員に、ボロクソに批難されるので、皆気が気でない。
分配が終って当番が帰った後の樽の清掃は大変な特権で、新幹部を除く一般労働者の中では、最も睨《にら》みのきく、旧軍年次の古い下士官がそれを独占していた。同じ下士官でも即席食品のような乙幹などは、その仲間に近寄ることもできない。年次を示す善行章の山形は勿論だが、中には旭日七《きよくじつ》や、金鵄《きんし》の佩用者《はいようしや》さえいた。
彼らは、分配を終えた後の、丸い杓子《しやくし》では完全にすくえなかったまだ温かい樽の底を、素手の爪でほじくり、指でさらって、手にねばりついた粥の残りを舐《な》めることができた。
古年次下士たちが、この羨《うらや》ましい役得を行使している間、回りでおとなしく待機している一団の人々がいた。ブリキのヘラと、空缶を持って根気よく待っている。下士たちが余すところなく舐め終えて樽から離れた瞬間、まるで猟犬のように樽にとびかかり、数人が一樽の中に手をのばして、ブリキのヘラで、木の合せ目や、縁の底にたまった僅かな粥をへずり取り空缶のふちにしごいて中にためる。皆必死であった。生きて再び家族のもとに戻るのには、あたえられた量では足りないのだ。空缶の底に、ほんの僅かにたまる粥は、木の繊維が交《まじ》って薄茶色になっている。それを寝床に持って帰り、分配された少い朝食に足して喰べるのであるが、これも多少睨みがきく古兵でなければ、できないことだった。
パンや、半ば凍りかけた粥が当番の手で舎内に運ばれると真剣な分配が始まる。低い天井の梁《はり》から、針金で作られた天秤《てんびん》状の計量器が吊され、一杯の粥がまず二つの飯盒に分けられ、その一つが更に二つの飯盒に分けられて四人分の量が確定する。両方がぴたりと同じになるのを見つめる人々の目の光りは鳥肌がたつほど怖《おそろ》しい。
時たまの通訳や、週に一、二度の演芸会参加で入る、他人より余分のパンの取得がなかったら、ぼくの神経はこの必死の計量監視で、狂ってしまっただろう。
黒パンの方は、物差しをあてて五分の一ずつに切り、小差は更に天秤にかけて修正してから配られる。
このパンは本来は昼食分である。作業場に携帯して行くのが原則である。しかし昼間の空腹に詰めこんでも焼け石に水、朝の粥と一緒に喰べて、一時的にでも満腹感を味わった方が心豊かになるという理由で、皆が同時に喰べてしまった。目の前にある喰べ物を昼まで黙って持っている心の余裕がなかったし、他の誰も喰べていないときに、一人だけ取り出して喰べるのは、皆の反感を買い、生命の危険まで考えられることでもあった。
粥とパンとの配給が終ると、後はどうやってそれを少しでも長く楽しみ、腹の中に持たせるかの工夫になる。絶対量が少い上に、これ以上は夕方の食事どきまで、粟粒一つ口に入らないのだから、皆真剣だった。
一番人気のあった喰べ方は次のような方法であった。
黒パンを小さなさいの目に切り、飯盒と共に枕《まくら》もとにおく。喰べる者は、左腹を下にして寝ながら匙《さじ》を持ち、少し粥をすくって口の中にふくむ。二度に一度はパンの小片を口の中の粥に交ぜてのみこみ、胃の中で粥の水分を吸収させてふくらませる。
腹内に長持ちさせるには、人為的に消化不良の状態を起させる必要がある。左腹を下にすると、口から胃に届く時間が長くかかり、それだけ食物との接触感が楽しめる。胃に入っても消化しにくいから、中に長くたまり、幸運な場合には、胃の中に醗酵《はつこう》したガスがたまって、飽食感さえ味わえる。ぼくもいろいろ試みた後で、この方法が一番長持ちする気がして、その信奉者の一人になっていた。
こうして、今、自分は喰べ物を喰べているのだという僅かな幸せのひとときの認識も、作業出発の鐘が乱打されると終りを告げる。
二時間も早いので外は暗く寒い。つい動作が鈍くなるが、それを見越してか、そのときまで毛布に囲われた一画で、彼らだけのたっぷりした食事をすませて、元気一杯の新幹部たちが、頑丈《がんじよう》な棒を振りかざして、一斉に飛び出してくる。
「てめえら何でぐずぐずしてけつかる」
「喰うときだけ熱心で、仕事となるとちっとも動きやがらねえ」
罵《ののし》りながら、見境なく殴って歩く。棚の人々は手早く飯盒や、寝具や、私物を、柱に縛りつけて外に飛び出す。零下三十度の寒い戸外に、口の回りを白く凍らしながら並ぶと、帝国側の兵士が、先が鉛筆のように尖《とが》った銃剣でつついて列をまっすぐに修正する。
新しい将校服を小粋《こいき》に着こなした小政が、二人の同僚を左右に侍《はべ》らせ、顎を突き出し、両肩を交互に前にゆすぶる任侠の徒特有の歩き方で出てくる。各隊の班長が一斉に『敬礼!』の号令をかける。礼を受けてから、毎朝恒例の訓示が始まる。
「こう! てめえらよっく聞け。今日から大統領の命令で特別作業期間に入った。仕事の定量《ノルム》ができなかったものは、その場でぶち殺してもいいということだ。わいも大日本帝国の軍人や。引き受けたからはぜひともやりたい。てめえらの二十人、三十人はぶっ殺すつもりでいるから、こう! 覚悟はしてろ。働かざる者は喰うべからず。大統領閣下万歳じゃ。出発!」
労働者たちは何の表情も見せず、ゆっくり作業場に向って歩き出す。次の飯の時間まで、生命の糸が切れなかったらもうけもの。それ以上は何も考えられないほど疲れ切っている。
行列は帝国側のしきたりで必ず五列であった。これだと二つで十人で人数が数え易い。
町はまだ眠っていた。作業場までは二キロ近くの道のりだ。背をこごめ、手袋の上から手をこすりながら歩いて行く。
歩いている人々の群が少し止まってのびた。
道の外れに鮮やかな色彩が凍りついていた。住民が昨夜の喰べ残しをほうり投げたのだろう、この国へ入ってからは、見たこともなかった白い粉でできたうどんと、その汁とであった。多少の具も交っていた。誰でも皆、歩哨の銃剣や、班長の棒がなかったら、駆けよって、氷からはがして口に入れたろう。
ぼくも生唾《なまつば》がわいてきて、視線が固定した。理由を知った新幹部の班長の一人が、そこへとんで行き
「日本人だ。いやしい恰好《かつこう》さらすな」
と靴で踏みにじった。瞬間、皆の夢はこわれたが、一方、誰もが少しホッとした。誰かに掘り起されて喰べられるよりは、誰にも喰べられないように処理してもらった方が未練は残らない。