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黒パン俘虜記4-2

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:     2 ぼくも眠い目をむりに突っ張らせるようにして、もと、ラマ寺であった収容所の中庭に整列した。ここは穴蔵の兵舎で
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 ぼくも眠い目をむりに突っ張らせるようにして、もと、ラマ寺であった収容所の中庭に整列した。ここは穴蔵の兵舎でなく、地上に兵舎が建っている。
 蒙古共和国の首都には、二千ずつの集団で大きな収容所が十カ所、他に郊外や、砂漠を越えた先の別の小都市に数カ所の規模の小さい収容所が散在している。隊員たちの間の移動があるし、特にこの吉村隊は、落ちこぼれが集まる吹き溜りで、作業の間にもと居た収容所の思い出話など出て、他の隊のことがよく分る。
 どの収容所でも、一般の兵士の労働時間や作業定量は大体同じだ。
 蒙古共和国の国家文書で、各役所、作業場には必ず配付されている、電話帳ぐらいの大きさの『作業定量帳』というのがある。それにはあらゆる作業に対して、男、女、年齢別に、一日八時間働いてなしとげられる作業量が、表示されている。
 これはよくできていて、国際赤十字に見せても、充分納得されるリストだといわれている。その意味で、蒙古共和国は、決して日本人抑留者に対してひどいことをしたとはいえない。ただ一つ、これだけよくできた国家文書にも書かれていないことがある。
 それはあくまで適当な環境の中で、充分な食事をとっていることが前提になっているということだ。
 配給の食物の量も、決してケチったわけではない。国民の標準ぐらいは、この砂漠の中の寒い国でも何とか都合してくれていた。餓死や栄養失調による死は、蒙古共和国側には、殆ど責任がない。
 ぼくが一年前にいた川べりの収容所では、幹部が食糧の分配を独占し、その一部を権力保持のために削り取った。特に少量の規定量しか支給されない、肉・野菜類は全部取り上げてしまうため、隊員は飢えて、作業定量遂行が困難になった。
 吉村隊では、食糧は配給された規定分だけは補給されたが、それはあくまで八時間の労働に対するものであった。早朝五時に起されるのは七時の朝食、八時の作業出発の前に二時間、特別の作業をするためである。ここでは、夕方、作業から帰った後もまた、二時間、特別の作業がある。
 蒙古共和国家のための八時間の労働は、きちんとやらせておいて、前と後の二時間ずつを、実際に町の経済を牛耳っているシナ人の商人に売った。二千人分の四時間の労賃は、一日で大統領の月給を越える。その収益を吉村個人と、収容所長の大尉とが山分けした。この絶妙なアイデアを考案し、持ちかけたのは、吉村の方だという。天才的な企業家である。俘虜たちの睡眠や休養は半分に減り、未遂行者に対する処罰は連日切れることがない。やる気とか、根性で間に合う世界ではなかった。
 水が凍る十月までは朝食の前に課せられる労働は、川からの木材引き上げであった。
 以前の収容所では、懲罰房の囚人専門の危険な仕事である。九月に入って急に寒くなった。それでも靴や服を濡らしてはいけないので、ズボンを脱ぎ、はだしで水の中に入る。
 材木が浮かんで繋留《けいりゆう》されている所は大体膝ぐらいまでは水がある。もう冷たくて辛い。川底の石は丸いのだが、体重がかかると、足の裏がひどく痛い。四人一組になり、木をしっかり結びつけてある針金の下に平たい石をさしこみ、上を丸い石で根気よく叩いて、熱を持たせて切って行く。
 離された一本の材木を、岸までは水に浮かせてひきずってきて、そこで前後に針金を巻いて、はしをのばして吊り、天秤棒で担ぐ。
 こんな寒くて辛い仕事をしていても、疲労と睡眠不足でふと眠りにひきずりこまれる。下流に立っていて油断すると、太い材木がぶつかり、腹の皮をはぎとられて即死する。前にそんな例を聞いたことがあるが、ここでは二人ばかり直接目にした。
 息もつかずに駆け足するような気持で働き続けてやっと定量の二本をあげるころ、他の普通の収容所での、起床の時間の七時になる。
 川から上って収容所に戻ると、早速、朝食の分配、食事だ。『暁に祈る』の声のため、眠りを削られて、もう普通の作業にかかる前に、ぼくは疲労しきっていた。しかし不平はいえない。朝の作業人員の中には、縄からほどかれた昨夜の処罰者も交っていたのだ。見てすぐ誰か分った。顔見知りだった。たまたま山の作業場で、持場が隣りになったとき、話が文学のことになった。すると熱に浮かされたように、牧野信一や嘉村礒多のことを語り出した。実はぼくは、石坂洋次郎の『若い人』と、尾崎士郎の『人生劇場』ぐらいしか読んでいなかったのでいってることが分らず、話の応対に困ってしまったことがある。
 食事の飯盒《はんごう》を下げて歩いてくる。
 目はうつろで足もとが危なかった。慰める言葉もなかった。そんなことをしても、この環境では何の効果もない。ただ昨夜、彼の悲鳴のうるささを怨《うら》んだことを、少し内心で詫びた。まだ冬になる前だから生きていたのだ。
 一時間で食事や、排便を終える。八時には整列した。十分ほど恒例の訓示がある。
 それはまず
「畏れ多くも天皇陛下は、現在どれほど辛い思いをしておられるか、今日も諸君はきびしく反省してもらいたい」
 という言葉から始まる。
「ことここに至り、陛下をお悩ませ申した責任は、一にかかって戦いを敗戦に導いた、我々不忠の兵士にある。いかにお詫びしても足りない気持だ。陛下の赤子《せきし》として、誠心誠意働き、限りなき皇恩の万分の一でも返してもらいたい。日本臣民として生れたありがたさを思えば、作業すること自体、胸がときめくような嬉しさでなくてはならないだろう」
 ……このような、大筋はどうも外れているような気がしないでもないが、実に理路整然とした訓示があってから出発になる。ここも、収容所のすぐ前に川が流れていて、木の浮橋で、対岸に渡れるようになっている。渡ると、垂直に近い傾斜で、崖がそそりたっている。俘虜たちは崖の下で一本ずつ二メートルぐらいの鉄の棒を受取り、岩肌を伝わって山へ登って行く。
 殆どが岩だけでできた山だった。日本では鉄平石と呼ばれるのと同じ種類の石が、薄い層になって山に張りついている。層と層との間のかすかな隙間をみつけて鉄棒の先を入れ、石を剥《は》がす。ただし何でも剥がせばいいというものではない。力まかせに入れても十センチ以内の小片しかとれない。各辺が三十センチ以上なくては、作業定量に入らない。町の建築の素材として役にたたないからだ。
 規定の大きさ以上の石板だけ地に積み、周辺各二メートル、高さ一メートルの三角の山に積み上げる。これが一|立方米《リユウベ》だそうだ。簡単な幾何学らしいが、中学二年のときで数学の理解力がストップしてしまったぼくには、本当のところは分らない。ここでも欺されている気がいつでもしていた。
 もっともぼくは、一|立方米《リユウベ》の素材がなくても、でき上りの石が規定量だけあるような外見を作る詐術には忽ち熟達した。だてに東京では名門といわれた府立のナンバースクールを出ているのではない。
 山へ入った俘虜の仲間は、それぞれ石の断層を見て、やり易そうな層を選んで、分散して作業にかかる。ぼくは二、三日でもう要領を把《つか》んだ。岩肌の層の善し悪しより、表面に土が露出している山肌を探すのが先だ。朝のうちに土を盛り上げて小山を作っておき、す早く石でかくしてから上へ積み上げると、全体の三分の一の労力が省けた。その上三十センチを欠ける石があっても捨てずに底へまぜてしまう。表面に形のいいものさえ並んでいれば、忙しい検査官の蒙古人は通してしまう。
 翌日に石が崩されて運び出されるときに、不正を発見されても、もう場所は変っているので誰がやったかは分らなくなっている。トラックにのせる係員は別に不正摘発係ではないから騒ぎたてない。このへんが遊牧民族からやっと近代国家の仲間入りをしようとしている国の人の大らかさでもあった。
 蒙古共和国側の検査官が巻尺を持って夕方登ってくる他は、あまり作業監督は来なかった。特に吉村隊長が山を登ってくることは全くなかった。はるかの下の方を二十人以上の部下に身辺を厳重に守らせて、午後三時に一回通るだけだ。作業している連中は皆鉄棒を持っているから、自分も死ぬ気で体当りすれば、必ず殺すことができるし、そう思っている者はたしかにいた。一行は山から石を投げても届かないところしか歩かない。
 一行が山ひだの向うや、振返っても、個人の識別のつかない所へ去ると、あちこちから
「人殺し」
「同じ日本人を何人殺せば気がすむんだ!」
 などという叫びが聞こえる。それが山にこだまして返ってくるが、犬の遠吠《とおぼ》えにも似て一層みじめになるだけで、ぼくも二、三度は大声を出してやってみたが、面白くも何ともないので、やめてしまった。
 朝方よく眠っていないのに、土山の不正分がかなりあったので、夕方の四時ごろには、六時の作業終了時よりは早くでき上る見こみがついた。全部早目にやって休むことは、他の人の手前もよろしくないので、少しゆっくりと作業しだした。
 ぼくとは十人分ぐらい作業場所を離れたところで、例の純文学好きのおっさんが、よろめきながら、作業をやっていた。基本の体力が弱っているところへ、処罰による不眠が加わり、半死半生の状態がよく分るような働き方であった。
 といって、ぼくは助けに行ってやるつもりはない。親子でも、兄弟でも、このきびしい環境では、助けに行けない。
 それは即座に自分の死を意味する。
 よろめきながら働いているのを無視し、ゆっくりした動作の中で、体に休息をとりこもうとした。
 はるか目の下の平地では、吉村と親衛隊の一行が橋を渡って、収容所の建物の方へ戻って行こうとしていたところだった。それを見下しながら安心して気がゆるんだせいか、ぼくは妙なことを思い出した。水道橋駅の横にあった雑草が茂った原っぱに忽然《こつぜん》としてできたばかりの後楽園スタジアムのことであった。外野席のアルプス・スタンドと呼ばれている所から見下したときと、視界の角度や遠さが似ていたし、もう一つこの突然の回想を結びつける要素が他にもあった。
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