夜中に近くなって奇妙な現象が起った。
警戒の兵士たちが、殆ど寝入ってしまったのを見すかして、何人かの人が、焚火の火の届かない暗がりを這いながら、友人探し、親類探しに、あちこちの車の集団を訪ねだしたのだ。
寝ている人々の耳もとへ来て、訪ね人の元の所属部隊や名前をささやく。ぼくらのグループにもよくやってきた。大半はうるさそうに手を振って追い払う。返事の代りに反対側に寝返りをされるだけの無言の拒否もある。一人だけ急に半身を起した兵があった。
「おうそいつなら知っとるよ。吉田上等兵だな。だけんどなあ……そいつおまえの何に当る」
その声でウクライナでの鼠取りを、能弁に語った男と分った。這ってやってきた男は、やっと消息を聞けそうなので嬉しそうに息をはずませて答えた。
「いとこです。同じ村で、同じ時期に召集されましたが、部隊が別でした。この国へ入るまでは、それでも、ときどき会ったりしていたのですが、入国してから消息がさっぱり分らなくなりました」
「そうか」
深い溜息《ためいき》をついた。
「……そいつは気の毒したな。もう一年も前になる。去年の十月凍傷で足をやられた。うちの隊長はそれを認めんのだよ。無理に作業場へかり出しているうちに、患部が拡がり悪化してとうとう死んでしまったよ。おれがそばで死んで行くのをみとったのだから、これは絶対確実だ」
「そうですか」
聞きに来た兵士は、気の毒なほどがっくりした。
「まあーここじゃよくあることだ。気を落すな」
「どうもお世話になりました。死んだいとこに代ってお礼を申しあげます」
丁寧に挨拶して、その兵士は、もと来た方に戻っていった。別れてまる二年になる。初めて分った消息が、相手の死では、どんなにがっかりしたろう。そばで聞くともなく聞いていたぼくは同情した。焚火はもう灰の山だけで、燃料はとっくにつきて、炎はない。夜の暗さの中では、枯草を集めに行く者もいない。
急に気温は冷えこんできた。
四日前のまだ明るいうち、特務の自動車の中から、次々にトラックに乗りこむ抑留者の群を見ていたとき、作業場から荷物も持たずに連れてこられた連中があったのを思いだした。外套も毛布も飯盒もない人々だ。この寒さで彼らはどのくらい辛い思いをしているか。誰も布きれ一枚貸してはくれないだろう。ぼくも本当は危なかった。帰国を知っている特務の配慮で、多分死者の残した物らしい外套と毛布と飯盒の支給を受けているから、今何とか眠っていられるが、これが入牢したときの作業服だけだったら、足踏みしながら、一晩中起きていなくてはならないところだった。
冷えこみがきつく一度目がさめると、なかなか再び眠りにつけない。
くくッと、押し殺した忍び笑いが聞こえてきた。どうもさっき答えてやった兵隊らしい。近くに寝ていた男が、咎《とが》めるように訊ねた。
「どうして笑っているんだ」
「ガセだよ」
もうどうにも堪らなくなったように外套ごと、転がって笑いだした。
「なぜそんなことしたんだ。可哀そうじゃないか。すっかり信じこんでしまって、がっかりして帰っていった」
やっと笑いを止めると答えた。
「皆眠いんだ。これから先の車の何人かの男が、もう起されないですむ。おれはいいことをしてやったつもりだ。今さら他人の死にかかずらわっていられるか」
また外套をかぶってしまった。
なるほどそれも一理あると感心してきいていた。最初は僅かな人だけだった仲間の消息たずねが、夜中になると急に多くなった。
帰還の旅が始まったという予想が、さっきの通告でたしかな実感になり、嬉しさが今ごろになって体中に拡がってきて誰も眠れなくなってきた。
一人ぐらい、ガセ情報で追い払ったところで、何の役にもたたなくなった。このグループからも、近くのトラックに聞きに出て行く者が出てきた。ガセ情報を創作して答えた男は、わりとまめな男で、誰かが出かけようとすると必ず注意した。
「このトラックは二百九十三番だ。番号だけは忘れるなよ。朝までに帰ってこんと、全員が出発でけんようになるからな」
やっと転がりこんだ帰国への希望が僅かの過失で取り消しになるのを、みんなひどく怖れていた。
消息を訪ねる人の往来が加速度的に増え、寒気がぐーんときびしくなると、もう大半の人は眠っておられず、僅かの灰の回りに固まってきて、小声で話しだすようになった。国境を前にして落着かなかった。
四日前までは、帰還のことなど夢にも考えずに、全員が昼まで作業をしていた。まだ本当に信じていいかどうか疑っている。
ぼくは、他の人とは別に、もう一つの心配を抱えていた。夜の闇の中に本職の盗っ人らしく消えて行った、あの山本鹿之介が、今どうしているかということだ。できれば彼の復讐は成功してもらいたかった。
飢えや、殴打による傷で、恨みをのんで死んでいった多くの人のためにも。……しかし一方、決してそううまくはいかないだろうという暗い予想もあった。
山本鹿之介は泥棒のプロでも、相手の男は喧嘩のプロだ。
眠れないままに起き上り、膝を抱えてうずくまっていると、少年のような若い声が聞こえてきた。
「すみません、誰か民団の萩田|大典《だいてん》という人を知りませんか。熱河省の次長をしていた人です」
二年前の敗戦の日、蒙古共和国軍は、攻めこんだ町での兵隊の数が予定の押収奴隷の割り当てに足りないと、その町で暮していた一般居留民の家族の中から、男だけを無理矢理ひきはがすようにして、兵隊の中につっこんで拉致《らち》してきた。中には、五十すぎの老人ややっと十六歳になったばかりの少年も交っていた。少年たちは体がまだでき上っていないし、衣服や持物が少なかったので、死亡率が一般兵士よりかなり高く、殆ど生き残らなかった。それでもほんの何人かは、こうしてまた国境まで戻ってきていたのだ。兵隊なら一番若くても、ここへきて丸二年、二十二歳になっている。まだ子供っぽさを残しているその少年を見て、改めて暗然とした思いであった。黙って答えられないでいる兵隊上りの団員は、このとき、奇蹟のような現実を目のあたりに見た。
風邪をひいていたらしく、隅っこで誰とも話しせず、毛布をかぶり体をちぢめて一人で横になっていた老人が、突然、毛布をはねのけて半身を起した。
「誰だ。大典は私だ。|のりお《ヽヽヽ》か」
少年が飛び上るようにして答えた。
「典夫です。お父さんですか」
「おう」
歩哨が起きるとうるさいので、誰も大きな声は出せない。それでも、駆けよって、父の所に行く少年の姿に、皆、感動の短い声を出した。
「おまえ、生きていたのか」
「お父さん」
少年は毛布の上から父を抱いた。
「……大丈夫ですか」
「ああ、私も元気だ」
敗戦の日は二人とも一緒に蒙古共和国軍に捕まったはずだ。こういう場合は、もしお互いがその希望を表明すれば、大体は同じ収容所にいられる。途中で病気で入院するようなことがなければ、民団員の場合別れることはない。誰かが焚火の灰の回りの仲間に、ぼそっといった。
「なぜ別れ別れになっていたのだろう」
このトラックは、最後尾の落ちこぼれ組をまとめたものだけあって、各所の収容所の者がまじりあっている。一人の老人が話しだした。やはり年から見て民団員だった。
「ぼくは萩田さんと一緒に熱河省の役所に勤めていて、一緒に俘虜になったもんだがね。萩田さんは、初め息子と同じように、大学建設の工場現場で、煉瓦積みしてたんだ。そこの工事が終って、ガンドン炭坑の石炭掘りと、チャガンフトの森林伐採とに隊が別れたとき、息子を伐採の方にわざと行かせたんですよ」
二人は後ろの方で泣いている。兵隊の一人が語り続ける民団の老人にきいた。
「親子だったら、何も別れることはないじゃないか。こんな苦しい環境だ。一度別れたらもう二度と会えるかどうか分りゃしねえ」
「それだから却って萩田さんは息子と別れたのです。いくら食糧が少くても、親子の情に負けて、もし譲り合ったら、少しでも譲った方が必ず死ぬ」
「うん、たしかに死ぬよ。絶対量より皆、うんと少いのだからな。分けることはできない」
「お互いに助け合っては生きて行けない環境です。そんな中で、二人が二人とも生き抜いて帰るのには、却って離れていた方がいいと判断したのです。その判断を実行に移すのは萩田さんも随分辛かったらしい」
「そりゃ、そうだろうな」
国境を前にしての安心か、これまで人間の心を捨てるようにして、やっと生き抜いてきた人々にも、いくらか他人にも同情する心が生れてきた。誰かが呟いた。
「子供や兄弟が一緒じゃ、残飯もあされない。目の色変えて、パンの切り方の大きい小さいもいい争えない。でもそれをしなくちゃ、結局、最後は生き残って帰れないからな」
民団の老人はしみじみといった。
「熱河省次長まで勤めた人が、随分、利己的なやり方をしたと、ぼくもよくは思いませんでしたよ。しかしこうして、二人とも生きて国境までこられたのを思うと、やはり利口な選択をしたと今分りました」
そろそろもう夜中の三時に近い。まだ暗いが、三時間たてば明るくなる。
二人の間のさまざまの話も終ったらしい。萩田大典という名の元省次長の老人は、父親らしい威厳を取り戻した声で、息子と話をしていた。
「おまえは何号車かね」
「百二十九号です」
「随分前の方の車だね。ここまで聞きながら来るのは大変だったろう」
「民団員の交っている車と、同じ部隊の兵隊だけがまとまって乗っている車は、話し声や雰囲気ですぐ分ります。だから直接聞いたのは二十台分もありません」
「そうか。それでもよく訪ねてくれた。もう安心だ。この車は二百九十三号だ。これさえ覚えていれば、途中でまた何度でも会えるよ。明るくなったら帰り難くなって、皆に迷惑をかける。もう戻りなさい。今日はお互いに生きていることが分っただけで充分じゃないか。これ以上の喜びは、却って人間の運にとっては良くない。悦《よろこ》びは少しずつ長く味わった方がいいよ」
「はい、そうします」
少年は何か父にさし出した。周囲の声や耳をはばかって、二人にしか聞こえない声になったが、他人に気づかれないような物のやりとりは、必ず食物のやりとりと、灰の回りの人々はこの何年かの生活で知っている。気にはなるが、干渉はしない習慣も身についていた。
「そうか、すまないな」
「いえ少し余計に働いたので、蒙古共和国人の監督にもらったのです。それにしても監督がいつもぼくに、自分の娘をもらって、ずっと蒙古共和国に居れと、すすめるので困りましたよ」
「そいつは危なかったな」
「ええ、その気になりさえすれば、すぐ収容所から出して、包《パオ》を一つこしらえて、二人だけで暮せるようにしてやる。パンも肉も腹一杯喰べられるし、社会主義国だから、全く失業の不安がない。おまえほどの頭なら、軍に入っても、役所に入ってもすぐ幹部になれるって、ずいぶんしつこくすすめられましたよ」
「よかったなあー。断わって」
「ええ、どうしても、日本へ帰りたいですからねー」
「うん。日本へ帰ることが第一だ。それじゃ元の車へ戻りなさい。明日からまた汽車の旅だ。きっと途中で会えるよ」
「はいお父さん」
息子はもう一度父の手を握ってから、左側の若い番号のトラックの方の闇にとけこむように去って行った。
ぼくらは皆、この偶然の親子の対面の実現に、何かこれから先の希望が見えてきたような縁起の良さを感じて、気分的にも、お互いに少し明るくなってきた。