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黒パン俘虜記6-1

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:     1 蒙古共和国とその宗主国との間の国境線の通過は朝から始まった。 国境の集落は、蒙古側がナウシカ、宗主国側は、
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 蒙古共和国とその宗主国との間の国境線の通過は朝から始まった。
 国境の集落は、蒙古側がナウシカ、宗主国側は、ナウシキといった。
 国境線を徒歩で越えたぼくらは、一編成二十車輛の有蓋貨車の列の中の、指定の番号の車を探して勝手に乗りこむことになっていたが、間違ったり、わざと違う車に乗ったりする者はいなかった。
 番号はこの輸送のため、車輛の前方側面に白ペンキで書いてありすぐ分った。四日間乗り馴れたトラックの番号と同じなので、大量の俘虜たちの乗車にも、何の混乱も起きなかった。全員が帰還の期待で従順になっている。
 口やかましく、一団の人員五十人を守らせてきた蒙古共和国側の人員管理が見事に成功した。人間を個人の枠から外して物として考えることに徹底すれば、難しい輸送も単純な仕事だったのだ。それでも全員の検問、人数確認、車輛探し、乗りこみを終えて、列車が出発したときはもう夕方になっていた。
 そこからシベリヤ本線のウランウデ駅までは単線の引込線だったので、定期の旅客列車のダイヤなどはなかったらしい。一号から十七号まで一つも順序は狂わず、十分の間をおいて出発して行った。各二十輛でできている十七編成の列車集団は、煙をつらねての一方通行であった。しかも一号編成車から、十六号編成車までは、各編成ごとに、きっちり千人の俘虜を乗せてこれも例外はない。総人員の点検は、最後の十七号編成集団の六輛だけの貨車の中の俘虜の人数を、確かめればいい仕掛になっている。
 蒙古共和国の人は、ちょっとこみ入った掛算となるともうできなくて、いつもぼくらにばかにされていた。だがこうなると、ジンギス汗の時代から大量の兵員移動になれている民族の、したたかな智恵を見せつけられた感じであった。
 夜があけて、窓から見えた風景はすばらしいものだった。
 車輛の左側には青い水をたたえたバイカル湖が拡がり、海と同じで水平線の先は見えなかった。
 右側は切りたった崖の山脈になっている。これも首をのり出して覗かなくては、頂上が見えないほど高かった。
 真中の扉をあけた仲間は、山側、湖側、それぞれに分れて並んで坐り、足をブラブラさせながら、この名画のような風景を飽きずに眺めていた。これまでのまる二年間は、収容所と作業場以外、どこも見たことがない人が大部分であった。
「広いんだなあーバイカルってのは」
「船も人も全く見えない。本当に凄い国だ」
 久しぶりに人間らしい会話が生れてきていた。ぼくは棚の上段で頬杖をつきながら開け放してある両側の扉から見える風景を、ゆったりした気分で眺めていた。
 二年間、腹がすいた話、作業が辛い話、ときどき湧き上っては消えて行く帰還の噂、お互いの会話には、そんな話しかなかった。
 日本での思い出さえ、腹がすいた日々には殆どしなかった。生きて行くことに関係のない景色の話などしたことはない。
 前後を見れば、列車の長さの五倍ぐらいの間隔をあけて、線路が見える限りは、同じような貨車の列が走っていた。有蓋貨車は普通家畜の輸送に使われることが多い。
 ぼくたちは最初国境の丘から貨車の列を見下したときは、また家畜と同じ扱いかと、てんでににが笑いした。しかし、実際に乗りこんだとき、それは家畜運搬用の貨車ではないことがすぐ判った。
「おう、二段になっておるわい」
「梯子までついておる」
「隅の穴は走行中の便所だな。つまりこれはれっきとした人間運搬車だっちゃ」
 まあー作りの粗い寝台車と思えば、座席のある客車より、長い旅には楽かもしれない。既に何度もこんな旅に使われてきたらしく、棚を組みたてている材木も古びて、人間の垢《あか》が沁《し》みこんでいた。真中が通路で、左右の二段の棚の、下段に十二人、上段に十三人、丁度五十人が肩をすり合せるぐらいで寝られる。
 しかし、それでもやはり家畜列車であった。運ばれて行く人々が、人間以下の家畜の存在であったからだ。ときどき一斉に止まって、パンや水が届けられたが、その間も待避線には入らなかった。まる二日間一台も反対方向に行く列車に会わず、完全な一方通行で走り続けた。
 シベリヤ鉄道の本線ウランウデで初めて待避線に入り、動かなくなった。ここから複線になったのだが、同じ東の方へ向う列車が次から次へと続いて、割り込む隙がなかなかあかないらしかった。
 それでも普通の旅客を乗せた、座席のある客車はまだ見ることがなかった。西の方のイルクーツクからやってきて、少し待っては、すぐ通り過ぎて行く列車は、みなぼくらの車輛と同じ有蓋の貨車であった。トラックの中で能弁な兵隊が語ったウクライナ暴動説は、鼠取りの部分を抜かせば、どうやら本当らしかった。
 入ってくる列車と、ぼくらの列車とは、同じ家畜列車でも、その間には、はっきりした差別があった。
 彼らの待遇の方がうんと悪い。
 ぼくらの列車はいつでも扉をあけて外を見られたし、停車中の乗り降りはとがめられない。用便や、飯盒の自炊、軽い運動などができた。また車から離れなければ、他の車輛の者と話しあっても叱られなかった。それに比べて西の方からやって来た列車の扉には、すべて頑丈な板が外からX字型に打ちつけてあった。小さな窓からは、何人もの顔が重なるようにして、外を見ていた。どの車にも、女、子供、老人の顔がまじっていて、それらの貨車は、作業員や囚人を乗せているのではなく、普通に生活している家族を根こそぎ網ですくって移動させているような感じだった。
 貨車の中からはみんなで唱う声がよくきこえてきた。民謡らしいが、いずれも深い哀調が地の底から響いてくるような歌だった。
 ここでまる三日間ずっと動かずにいたぼくらの列車の集団は、やっと線路があいたらしく、四日目の昼に急に汽笛が鳴りまた走り出した。
 この列車の旅は、帰国の希望を別にしても、ぼくらにとっては、何年ぶりかの楽しいものだった。これまで一日としてぼくらは仕事が何もない、のんびりした日を送ったことはない。いつも空腹で、しかも厳しいノルムがあった。達成できなければ、残忍な処罰が待っていた。帰国する日が来るまでは、そんな日が無限に続くと覚悟していた。
 それが今は仕事もしないで、眠っていられる。働かなくても喰える。この政治組織を持つ国家群の中では、想像することもできない恵まれた境遇にもう何日かひたっているのだ。
 食事は今までと同じ黒パン四分の一だが、日々の労働がないから、その分だけ消耗がない。何日かの休養で腹がなれてくると、満腹ではないが、やけつくような飢餓感は感じないですんだ。先方のいうように人間の生命をまあまあ保って行くぐらいのエネルギーはあったのだ。
 いつも左側にあったバイカル湖は、もう見えなくて、周囲は、変化のないシベリヤの荒野になった。十月に入ってから、雪はあちこちの黒い土の上をまばらに染め出したが、日がたつと共に、白い部分が多くなって行く。チタが近くなると殆ど雪原になった。
 ときどき森が見えては消える以外、まる一日走っても村落も、一軒家も、駅も、信号所も、見えない日があって、本当に走っているのかと、不安になったりした。
 旅も十日もすぎてくると、人々の態度が穏やかになってきた。
 起き上って他の人をまたぐときはごく自然に「ちょっとごめん」とか、「すみません」とか口に出るようになっていた。
 パンの受取りや、水汲みの使役などに、当番がでるときは「ごくろうさん」と声をかけ、分けてもらうときは「ありがとう」と言葉が出た。これだけで随分、仲間の雰囲気が変った。衣食が少し足りてきたのだろう。二年二カ月の間、絶えることのなかった、怒号、叱責、お互いのいがみ合いが無くなり、ぼくにはこれが一番嬉しかった。これまでは、階級の低い兵隊、腕力に自信のない者、動作の鈍い老人などは、いつも脅えて暮さなければならなかっただけに、ようやくこれらの人にも、安らいだ表情が浮んできた。
 チタを出て五日目、ぼくのロシヤ字の知識では正確には読めない綴《つづ》りだったが、多分チュコウオロジニーという妙な名の駅でまた汽車は停り待避線に入ってしまった。まだシベリヤの真中らしい。大体のシベリヤ地図を頭で描いても少くともハバロフスクまで行かなくては、終点に近いとはいえない。その読みにくい駅の大きな待避線では汽缶車を外してしまった。
 ここでの停車は長くなりそうであった。
 歩哨の配置は大きく周辺を囲むだけになり、一般のロシヤ人の出入りを止めると、中の俘虜たちが、その枠内を歩き回るのを自由にした。急にお互いどうしの往来が激しくなり、さまざまの情報が活発に行きかうようになった。
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