昨年の暮、三年ぶりにポール・デイビスに逢った。彼があるデザイン学校の招聘で来日した時だった。三年前ニューヨークで逢った時の彼は今よりもずっと髪も長く、そして髭を伸ばしていたので、今回のすっきりした彼を見てぼくは少々とまどった。またポールもぼくの短くなった髪や失くなってしまった髭を見て、やはりとまどった表情を浮べた。
ぼくが最初ポールに逢ったのは今から九年前で、その後三年前まではほとんど毎年逢っていた。ところが三年前サッグハーバーの彼の家で逢った時、彼は長髪で髭を伸ばし、ヒッピーのような格好をしていた。彼が変わったのかアメリカが変ったのか知らないが、彼の姿や、彼がマンハッタンを去って田舎の港町に移った新しい生活がぼくにはとても新鮮に映り、ぼくは内心うらやましく思った。
彼はこの時マクガーバンの選挙ポスターを作っており、政治に大変興味を抱いている様子だった。当時のぼくはといえば、すでに政治への関心は薄れており、空飛ぶ円盤にとりつかれたばかりの時だったので、円盤以外の話にはまったく興味が持てず、だから彼の政治の話にもどうしても深くのっていくことができなかった。ポールの現実的なものへの指向と、ぼくの非現実的なものへの傾斜にお互の友情が傷つかなければいいがとぼくは多少危惧しながらニューヨークを去った。
そしてこの時以来ぼくはニューヨークに行かなくなってしまった。だからその後彼がどのように変っていったのかはさっぱりつかめなかった。また彼を知ることのできる雑誌のイラストレーションもほとんど見なくなってしまい、その後彼は一体どうしているのだろうと少々気にしていた。
ところが昨年と今年の春の二度の来日で、久しく多くを話すことができ、彼とぼくが非常に近い考え方をしはじめようとしていることがわかり、われわれ二人は大いに感動し、彼の言葉で表現すれば、二人の間にはテレパシーが通じ合っているということだった。
彼は昨年来ほとんどのコマーシャルの仕事をやめ、今後アーチストとしての活動を始める意志を固め、すでに実現し始めている。そして現在では政治に対する関心は薄れ、社会的なものから個人的なものへと関心の対象が移ってきたという。家族や友人、そしてごく身近な自然や環境に興味があるという。このような個人的領域への関心が、イラストレーターからアーチストへの変貌を余儀なくさせたのではないだろうか。
彼の作品を最初に見た感動は、タブローの精神がイラストレーションの中にうまく合体しているということだった。また別の言い方をすれば、タブローの成立っている秘密をイラストレーションの中にばらばらに解体して暴いたともいえるのではないだろうか。彼が最も大きな影響を受けたと思われるものにアメリカのナイーブアートやアンリ・ルソー、そして一九二〇〜三〇年代と五〇年代のイラストレーションの様式、またイタリア・ルネッサンスやあるいはアメリカのコミック・ストリップなどがあるが、彼はそれらの多様な表現や技術をひとつの坩堝《るつぼ》の中で消化し、ここにまったくオリジナルなポール・デイビス・スタイルを作り上げた。こうしたパロディックな表現はおのずから、社会諷刺的な様相を呈し、時間の羅列を混乱させ、われわれを奇妙な現実に投出してしまう。この奇妙な現実は過去、現在、未来が相克しながら、また同時に共有しているという、まるで夢のような世界である。
彼がコマーシャルなイラストレーターからアーチストに転向することにより、彼はより自由になり、計り知れない過去の眠れる記憶の中から、われわれをますます奇妙な彼の夢の王国に誘《いざ》なってくれることだろう。現に彼自身のオクラホマ時代の子供の頃の記憶を絵にしたいといっているように、ますます彼はいま個人的世界に深く根ざしはじめた。今までの彼はイラストレーターとして、あるいはジャーナリスティックな感覚で外部世界を表してきた。しかし、外部を描写することが必ずしも外部を表現し得ないことに気づいたのか、彼がより内面世界を掘下げ、自己の何たるかを自身に問いかける時、そこには外部世界のより明確に浮彫りされたリアリティがさらけ出されるはずだ。
ポールのタブローへの転向はぼくに二度目の打撃を与えた。しかしこのパンチはぼく自身がタブローへ傾斜しはじめていることへの大きな自信に繋がっている。彼に初めて逢った一九六七年に二人で共作の本を出すことを決めて、その後数回にわたって打合せながら、ついに十年近くなったが、今回はいよいよ機が熟し、具体的な制作にかかろうとしている。ぼくはこのよき友人を持ったことを神に感謝している。
ぼくがイラストレーターを志望したのも、ポールのテレパシックな影響だったし、今またタブローを始めようとしているのもポールのテレパシーによるものかも知れない。
この前ある雑誌で彼と対談した時、彼は、「この世の中で一番幸せな人間というのは、心の穏やかな人ではないでしょうか、私はそういう人間ではないのですが、そうなりたいと思う……」といった。この言葉はぼくにとって最も印象的であった。この言葉の背景には何か宗教的な救いを求めようとする彼の姿が、ぼく自身とオーバーラップしているのを熱く感じた。また宗教の話をした時、「私は如何なる宗教活動も信じない、ただ一杯の水をおいしくいただくことが自分の宗教だ」といった。まさにこの通りであって、神は自分の中にあり、自分自身が自分の教祖として自分を導けばいいわけである。だから彼の宗教は個人的なものでなければならないという考えは正しい。�一杯の水をおいしくいただける�というこの心境そのものが宗教的境地だと思う。
ポール・デイビスとの出逢いは、前世からのカルマ(業)によるものだとぼくは今では堅く信じている。