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なぜぼくはここにいるのか53

时间: 2018-10-26    进入日语论坛
核心提示:  死について ぼくがいつどのようにして死ぬか、ぼく自身も全く知らない。しかしぼくの人生においてこれほど重大な関心事も他
(单词翻译:双击或拖选)
   死について
 
 ぼくがいつどのようにして死ぬか、ぼく自身も全く知らない。しかしぼくの人生においてこれほど重大な関心事も他にないことは事実だ。わかっていることはぼくは確実に死ぬということだけである。老衰によって人生を全うするか、あるいはそれまでに病死、または横変死するかのいずれかである。そしてその瞬間はこうして原稿を書いている最中にも刻一刻と近づいている。
 そしてこの瞬間はすでに神の計画によって定められているのかも知れない。ただぼくはそのことを知らないだけである。ぼくは別に運命論者でもなんでもないが、ただひとつ解るのはぼくが死ぬのも、生きるのも、因果の法則という宇宙の計り知れない大きな未知の力の働きによって支配されているということだけである。
 前世の行いの結果が今生であると信じているぼくは、どのような苦渋に満ちた人生に遭遇しても耐えなければならないと考えている。前世の結果が今生であれば今生の結果は来世へと続き、悪人は永遠に悪人ということになって絶対救われないことになる。このような論理では全く個人の自由意志は否定され、全てが運命という流れの中に吸収され、人間は何のためにこの世に生を受けているのか全く理解に苦しんでしまうことになる。
 しかし、人生のどんな場合においても、われわれは何かを試されているような気がしてならない。例えばある問題に直面した時、われわれには常に二つの道が与えられていることに気づく。それはその人間の欲望のバロメーターによって決定される。もしここで自らが欲望によってその道を選ぶなら、その人は定められた自分の運命の流れにしたがうことになるのではないだろうか。こうした欲望の積重ねからはカルマ(絶対業)は断切れないだろう。すると欲を捨てることが唯一解脱できることになるのだが、この難題が解決できない限り、人間は救われず、再びこの地上に転生してこなければならないことになる。この地上に生を受けるということは、欲望から解脱していない証拠である。もし完全に解脱した人がいるなら、その人は恐らく今の人生が肉体としての最後の人生であり、死後彼は二度と再びこの地上に転生することなく、より高次な惑星に再生するか、あるいは仏の世界に魂だけになって実在するかどちらかであろう。
 ぼくが肉体としてこの地球にある限り、ぼくは死を避けることはできない。もしぼくが死ななければならない時が来たなら、これこそわが人生で自らが作上げた運命として安らかに死を迎えようと思っている。そのかわりもし神が決めた死が近づいていなければ、それ以前にぼくがどんなに努力しても死ぬことはあり得ないとも思う。
 欲望から解放され、善行を施すことによりぼくは一日でも寿命を延ばし、そして安楽死に至り、さらに来世は神と共にある人生を迎え、最後に二度とこの試練の場である地球には再生したくないと願っている。しかし、考えてみればこれほど罪深い欲もちょっとやそっと他に類をみないのではなかろうか。恐らくけがれ多いぼくは地球が壊滅した後の塵の上にまで再生しかねないような気がする。
 
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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