一
塩田《えんでん》の煙が幾すじも真っ直ぐにたち昇っていた。陽ざかりはやや過ぎたが、港の町飾磨《しかま》は、これから日没までの夕凪《ゆうなぎ》が一日中でいちばん暑いといわれている。
昼顔の葉も花も、白い埃《ほこり》をかぶって、砂地の原には、日蔭もなかった。その向うに見える家々は夜に入ると港の男の濁《だ》み声《ごえ》や絃歌《げんか》の聞える一劃《いつかく》だった。ここの辻はその空地を前にして片側町となっている。
官兵衛は、馬の背から、とび降りると、馬を草に放ち、袴《はかま》から背まで、体じゅうの埃を払っていた。
「おや、姫路の若殿ではないか。むすめ、むすめよ。お洗足《すすぎ》を出しておけ」
ちょうど店さきにいた与次《よじ》右衛《え》門《もん》は、表の人を見ると驚いてから腰を上げた。そして衝立《ついたて》の蔭で自家製の目薬をせっせと貝殻《かいがら》の容器につめていたお菊へいいのこすと、自分はもうあたふたと草履《ぞうり》をつッかけて往来の向うへ駆けていた。
「おうおう、これはいかな事、若殿ではござりませぬか。どうして、遽《にわか》にただおひとりで、これへは」
官兵衛のうしろへ廻って、共に、埃をたたいたり、笠を取ったり、下へも措《お》かないばかり迎えて先へ立ちかけると、
「爺や、爺や。おれの身よりは、その馬のほうを先に、裏口の方へ曳いて行ってくれ。そしてすぐ鞍を外《はず》して、奥へかくしておけ。鞍は人目につき易いからな」
「では何か、お微行《しのび》で、火急、おわたり遊ばしましたか」
「微行も微行、一切、人目を怖れる密《ひそ》かな途中だ。わけてここは諸国の者の出入りの繁《はげ》しい港町。はやくせい。仔細《しさい》はあとで話すから」
「はい。はい。——おうい、むすめよ、裏の木戸を開けておけ。馬を曳くぞ」
与次右衛門は、何事ともまだ分らないが、馬の口を取って、大あわてに、路地へ曳きこんで行った。それを見ながら官兵衛は、店の框《かまち》に腰を下ろして、わが家へ入るような気易《きやす》さで、草鞋《わらじ》を解き、足を洗っていた。そしてふと軒に懸けてある古い板看板の——
神効家伝 玲 珠 膏
と大書してある目薬のそれを仰ぐと、自分の幼時と、父の貧困時代を思いだして、しばしなつかしそうにながめていた。