一
人も、厩《うまや》の馬も、寝しずまったころを、ここの一室では、燭《しよく》の光《ひかり》をあらためて、さあこれからと、杯を分け持つ夜半《やはん》だった。
湯あがりの爽涼《そうりよう》な肌に、衣服も更《か》えて、客の官兵衛は甦《よみがえ》ったように、遠慮なく日ごろよりよく飲み、またよく語った。
秀吉も酒を愛し、竹中半兵衛もすこし嗜《たしな》む。加うるに、官兵衛との三人鼎座《ていざ》であったが、量においては、官兵衛が断然主人側のふたりを凌《しの》いでいる。
夏の夜はみじかい。殊に、巡《めぐ》り合ったような男児と男児とが、心を割って、理想を談じ、現実を直視し、このときに生れ合わせた歓びを語りあいなどすれば、夜を徹《てつ》しても興は尽きまい。
「——かさねて申しあぐるが、仰せらるる将来の大計、いわゆる天下の事は何とせられても、中国を治《おさ》めて後、初めて成るものではございますまいか。強大な毛利家の勢力が、頑《がん》として、摂津以西の海陸を擁《よう》しているあいだは、たとえ信長卿が中原《ちゆうげん》の地《ち》、京都に旗幟《きし》を立てて、足利公方《あしかがくぼう》以下、旧幕府の人間と悪弊《あくへい》とを地から掃《は》くように追払っても、なお肯《がえ》んぜぬ近畿《きんき》の大小名を一個一個討って行っても、また東海方面の安定を得ても、甲山陸の強豪を亡ぼし尽しても、結局、それを以て、満足とはいえません。思し召すところの理想なども行えません。どうしても中国平定の如何《いかん》に帰結されます。……ましてその毛利家が石山本願寺と結び、その本願寺派の抗戦が、種々な形をとって、近畿に伊勢に北陸に、宗門《しゆうもん》の身のあるところ、隙《すき》さえあれば、火の手をあげて、反信長の兵乱を起している現状では、なおさらのことではありませんか。長島を攻めたり、北陸を攻めたり、みな枝葉末節です。なぜ抜本直截《ちよくせつ》的に、その傀儡《かいらい》者たる本願寺を討ち、また大挙、中国攻略の軍を決断なさらぬのか……官兵衛は実に歯がゆいと思います」
酒間のはなしには、興に入っているほど、とかく余事にわたってしまったり、ほかへ話題が反《そ》れたがるものである。——官兵衛が胸中の一端を吐いた以上のことばも、決して一気に述べたものではないが、あいての気色を見たり、杯の頃あいを量《はか》ったりして、幾たびかに以上の要旨《ようし》だけを洩らし得たものであった。
というて相手の秀吉がその問題に耳を傾けないのでは決してない。秀吉はどちらかといえば自分が語るよりも聴き上手の方だった。よくひとの説を聞く。官兵衛の言には熱意を面《おもて》に現わして聞くのである。けれど彼の返辞は官兵衛の熱情にくらべれば消極的なこと多分だった。
「もとより中国の問題はなおざりにしてはおけない。自分も疾《と》くより考えているし、主君信長様の炯眼《けいがん》が将来の計を怠《おこた》っておらるるはずもない。しかし、如何《いかん》せん、織田家の四隣は余りにも多事で、先年は伊勢へ出征し、この五月には長篠《ながしの》の大戦を果し、兵馬を休める遑《いとま》もなく、また直ちに北陸へ出軍の準備中にあるというような実状である。それとて、こういう足もとの多事多端は、決してわが織田家の脆弱《ぜいじやく》によるものでもなく、方針の悪いために起る破綻《はたん》でもない。要するに、われらお互いの者と同じように、織田家そのものの業《ぎよう》もまだ若いのだ。考えても見られい。つい桶狭間《おけはざま》の一戦あって以来の織田家だ。あの時、わが主君には二十五歳でおわしたから、今日四十二歳にわたらせられる信長様の業としては、実にまだ十七年しか経っておられぬ。——十七年のあいだに、とにかく尾張清洲《おわりきよす》の一被官たるご身分から、これだけに躍進され、積年の悪風を京都から一掃して、旧室町幕府の世頃とは比較にならぬほどなご忠誠ぶりでもある。……といったような次第で、いやもう実に迅速《じんそく》も迅速、われら凡人どもには、一代でも到底成し能《あた》うまいと思われることを、ここわずかな年月《としつき》によくもやり通して来られたものと、われら家臣どもも驚嘆《きようたん》しているほどなのだ。従って、過程の荒削《あらけず》りはまぬがれない。その急速の過程にはまた当然始末が残るというわけにもなる。——いずれにせよ、まだ正直、中国までへは手が届かん。何といっても、足もとが先だ。中国まで、いままでのような早仕上《はやしあ》げにいたそうと思っても、さきは強国、今までの相手とは相手がちがうからな」
彼に報いた秀吉の意を、纏《まと》めていえばこういう程度であった。それ以上、積極的には出ないのである。酒もうまし、相手も語るに足る人と見込んでいるが、その点、官兵衛はなお不満だった。