一
摂津《せつつ》の荒木村重《むらしげ》の位置はいま重要な性格を持っている。伊丹《いたみ》を本城として、尼ケ崎城と兵庫の花隈城《はなくまじよう》とをむすび、三城連環の線をなして、中国大坂間の交通を遮断《しやだん》し、本願寺そのほかの反信長分子と毛利家との連絡をきびしく監視《かんし》している。なお且《か》つ、一朝信長から中国攻略の令が発せられる日となれば、ここは真っ先に、織田軍の最前線基地ともなる突角の地でもあった。
以て信長が、いかに村重の武勇を高く買い、その一徹者の正直を信頼しているか分るのである。
「やあ、官兵衛ではないか。どうして、これへはござった。さても唐突《とうとつ》な」
その荒木村重は、官兵衛の訪問をうけると、早速に会ってくれたが、ひどく怪訝《けげん》そうな顔をした。
場所はいうまでもなく、伊丹城(村重が有岡城と改名)の本丸だったが、城中はどことなく騒然《そうぜん》として、出征の身支度をした将士が、武者溜《むしやだま》りにもいっぱい見えたし、諸門の口や廊下にも駆け歩いていた。
官兵衛は形のごとき挨拶をして後、
「近々に北陸へご出陣と承りましたが」
「さればよ。信長卿もご出馬あるので、今度はおそらく、北陸の一向門徒と、上杉謙信のあやつる与党《よとう》の蠢動《しゆんどう》を殲滅《せんめつ》し尽すまでは、われらも帰国相成るまい」
と、側にいる美しい侍女に酒を酌がせ、飲みほしたそれを、官兵衛にさし向けて、
「とんとご無沙汰しておるが、お汝《こと》の主家、小寺政職《まさもと》どのには、相変らずかな?」
と、やや嘲侮《ちようぶ》を唇にたたえていう。
その容子の裡には、何となく、現在の自己の勢威を誇って、いまなお播州の一地方に崛踞《くつきよ》している者の妄《もう》と無能をあわれむような、二つのものが窺《うかが》われる。
「はい。主人政職も、まずはつつがなくおられまする」
官兵衛は懐紙を以て杯のふちを拭い、村重の前に謹んで返しながら素直《すなお》に答えた。けれど心のうちでは、その杯よりも心の狭い小器な人物よと、かえって村重の態度を愍然《びんぜん》なものと見ていた。
主家小寺家と荒木家とは、いろいろな縁故《えんこ》から旧交浅からぬ間であった。従って、官兵衛も彼の性行と今日ある由縁《ゆえん》はよく知っていた。
村重はもと池田の池田勝政の一部下に過ぎない者だった。そして三好党に属していたが、信長が兵をひいて、京都に入り、足利義昭《よしあき》を中央から放逐《ほうちく》するとき、彼は手勢わずか四百をひッさげて、その市街戦に臨んで、俄然《がぜん》織田軍に加勢した。本国寺から七条道場《しちじようどうじよう》(金光寺《きんこうじ》)のあいだの戦闘で驚くべき果敢な働きを示したのである。それが彼の織田家に仕えた始めであった。
後、岐阜城へ招かれたとき、諸将と共に、饗膳《きようぜん》を賜わったが、そのあとで信長が、例の酒興か、承知のうえで、村重の胆試《きもだめ》しをしたものか、佩刀のさきに、饅頭を突き刺して、
(摂津。これを食うか、食わぬか)
といった。すると村重は大きな口を開いて、前へすすみ、
(いただきまする)
と、刀のさきの饅頭を咥《くわ》えて食べた——などという話がある。ともかくこんな行為も、信長から観て、
(これは使える)
と、重用された一因ではあるらしかった。
それにしても、池田家の部下時代から較べると、実に破格な出世だった。いまも出陣を前にして、侍女美童を左右に侍《はべ》らせ、酒間に重臣から軍務を聞いて、いちいち決裁を与えている有様は、時めく人、そのままだった。官兵衛に来意を質《ただ》してそれを聞くと彼は腹を抱えないばかりに笑い出した。
「それがしを隠密《おんみつ》と仰っしゃいますか。策士なりと仰せられますか。いやはや、近頃にない愉快な事でござる。その小策士の隠密が、信長様が常にご愛用あそばしておられる『圧切《へしきり》』の名刀を拝領しておるなどは、いよいよ以て、ご不審でございましょうな。念のため、ご一見くださいませんか」
「圧切《へしきり》のお刀を拝領して参ったと。……ど、どこに」
「次の間にさし置きました」
「まったく拝領したのか」
「ご愛刀をいただくなどは、よほどの戦功でもなければないことです。さるを片田舎の陪々臣《ばいばいしん》に、下し置かれた御意にたいし、何とおこたえ申し上ぐべきや、官兵衛は忘れがたく存じております」
「はての」——村重は大きく腕を拱《こまぬ》いた。そして、官兵衛の使命をほぼ察したが、同時に、そこに介在する羽柴秀吉を思い泛《うか》べずにいられなかった。
「——主人小寺政職《まさもと》といえ、御着《ごちやく》の小城といえ、全お味方から観れば、微々たるものでございましょうが、従来はこの伊丹、尼ケ崎、花隈の三塁を以て中国に接する第一線となされていたものが、今日以後、更に播州の姫路、御着の敵地深くに、織田麾下《きか》の尖角と作戦の基地を持つ形となりました。この事は、大きく申せば、やがて中国に大事を成す最初の足場ともなるお役目を果しましょう。摂津守様にも、この意味において、何とぞおよろこび下さいますように。……いささか烏滸《おこ》なりとも存じましたが、将来、わが小寺家と荒木家とは、同じ麾下と、同じ目的のために、一心提携《ていけい》いたして参らねばならないことでもあり、旁《かたがた》、帰国の途中、ちょっと拝顔の栄を得て、右の儀まで、お耳に達しおく次第でございまする」
——すぐ、ずっと席を辷《すべ》って、身を屈め、
「お忙しい中をお邪魔いたしました。では、これでお暇《いとま》を」
と、次の間においた名刀の嚢《ふくろ》を片手に取上げ、すたすた伊丹城を退がってしまった。そして、そのあとの村重の顔を思いうかべては時々苦笑していた。