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黒田如水31

时间: 2018-11-16    进入日语论坛
核心提示:与君一夕話三 岐阜城への用向きはすんでいたので、秀吉はすぐにも小谷の城へ帰る予定だったらしいが、官兵衛のために二日延ばし
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 与君一夕話
 
 岐阜城への用向きはすんでいたので、秀吉はすぐにも小谷の城へ帰る予定だったらしいが、官兵衛のために二日延ばして、信長からゆるしが来るとすぐ彼を伴って登城した。
 信長との謁見《えつけん》は、正式でなかった。密使として、極くひそかに、一室で会ったのである。
 ことし四十二歳という信長は実に若々しく仰がれた。秀吉よりも若く見えた。同室は三名だけで、会見の時間は、暑い昼中というのに、二刻《とき》にも余った。
 官兵衛は説いた。あらゆる角度から観て、中国攻略の急務なることを説いた。一片のかざり気も詭弁《きべん》も思ういとまなくただ真心を以て説いた。その気持が、彼自身で信じている以上の雄弁となって、果ては相手がいかなる貴人であるや否やも眼中になかった。
「——もしいま、一人の大将を下し給うて、中国征討の大事を実行あそばさるるなら、東《ひがし》播磨《はりま》の明石城、高砂城の梶原ごときは、毛利麾下《きか》といわれていても、眼前のご威風に慴伏《しようふく》してしまうでしょう。志方《しかた》の城主櫛橋左京は、幸いにもそれがしの家の姻戚《いんせき》、これは必ずお味方へ引き入れます。ひとり三木城の別所長治《ながはる》は、頑として降《くだ》りますまい。また西《にし》播磨《はりま》では、佐用《さよ》城の福原、上月《こうづき》城の上月一族なども、別所長治とむすんで、毛利家への忠誠を尽すことと考えられますが……それらの大小城のうちに最も要地を占める姫路城は、すでにかくの如く、ご面前において、お味方の先駆《せんく》を誓うておるのですから、それらの群敵も、何かあらんと、申し上げても広言ではございません。もとより姫路一城は、そのために捧げる覚悟でございます。中国攻略の基地として、お用い賜わるならば即座にご献上いたしまする」
 信長は率直に歓んだ。彼の細心も官兵衛の誠意と熱情に疑いをさしはさむ余地はなかったとみえる。よかろう必ず善処する、近いうちにきっと、姫路の城も大いに役立てる日があろうから、それまでは汝が預かっておれ——といった。そして、
「そちが随身《ずいしん》のしるしに」
 と座右《ざゆう》にあった「圧切《へしきり》」の名刀を手ずから取って官兵衛に与えた。この刀の由来を後に「黒田重宝故実」に依ってみると、こう記してある。
 ——御刀は長谷部国重《はせべくにしげ》の作、二尺一寸四分。信長公故あつて管内といふ者をお手討ありし折、管内恐れて、庖厨《はうちゆう》の膳棚の下へ逃げかくれしかば、公、御刀を棚下へさし入れて、へし付け給ふに手にも覚えず刃徹《とほ》りて管内死してけり、是れに依つてかくは名づけ給ふとぞ——
「ひとまず中国へ帰って予の命を待て。時来たればかならず沙汰申すであろうゆえ」
 信長の言質《げんち》と、圧切《へしきり》の一刀を持って、官兵衛はひとまず城を退がった。城内城下はこの日も来往の諸大将とその兵馬で輻輳《ふくそう》していた。丹羽、滝川、柴田、或いは佐々、明智、前田などの錚々《そうそう》たる人々もその中にあるかに思われたが、官兵衛は秀吉以外の誰とも口をきかなかった。
「それがしも満足。御辺もこれで、まずは深淵を出て、風雲の端に会したというもの。臥龍《がりよう》、いよいよご自重《じちよう》あれや」
 秀吉もそういって、彼のよろこびをともによろこび、自分は即日北近江の帰途につく、御辺も小谷の城へ来て、数日、遊んで行かないかとすすめた。
「途中までご一緒に行きましょう」
 駒を借りて官兵衛と衣笠久左衛門は羽柴家の列に従《つ》いて、長浜まで行《こう》をともにした。
 長浜へ着くと、秀吉は、そこの丹羽五郎左衛門を訪うて、二艘の舟をかりうけ、
「暑い陸路を行くより、夜のうちに湖心を通って、大津まで参られたがよかろう。月もよし、涼みがてら筑前も途中までお見送りする」
 といって、一艘には料理人や家臣をのせ、一艘には、官兵衛と自分だけが乗って、黄昏《たそがれ》頃、岸を離れた。
 ちょうど月の中天《ちゆうてん》にかかる頃、官兵衛と秀吉の船も、琵琶湖《びわこ》の中ほどまで来ていた。酒を酌み、月を賞し、未来を語りなどして、夜を更《ふ》かし、やがて船と船とに別れ乗ったが、相去るに臨んで、おさらばと、波間に顧み合って手を振ったとき、官兵衛は生れて初めて涙を頬に味わった。なぜか涙がながれたのである。
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