一
この正月からは、信長は安土《あづち》の普請《ふしん》に着手していた。
彼の土木は、やはり彼の戦争のとおりだった。規模《きぼ》の大、構想の斬新《ざんしん》、それは誰の設計でもなく、彼の創作によるものだった。衆智《しゆうち》をあつめて衆智を越え、東山様式の因習《いんしゆう》を破り、大がかりなこと、豪壮華麗《ごうそうかれい》なこと、天下の耳目《じもく》をあつめるに足りた。しかも工事の督励《とくれい》は急速を極めて、夜も日もあったものでなく、起工以来まだ一年にも満たないまに、湖畔《こはん》の一丘には大体その骨組を完成し、広茫《こうぼう》な桑田や畑は、新しい城下町と化していた。
普請奉行は、丹羽長秀、明智光秀などが分担《ぶんたん》していた。きょうも彼は、すぐ麓《ふもと》の桑実寺《そうじつじ》から登って来て、
「わしの住居はまだか。天守の七重だけでも、総懸《そうがか》りで仕上げを急がせい」
と、性急に催促《さいそく》しながら、戦のような現場を視《み》て廻っていた。
いつも案内に従う丹羽五郎左衛門長秀も気が気でなく、
「この通りに、夜も日も、総力で急がせておりますれば」
と、いうしかなかった。
天守台の七重櫓が総体の中心であるだけに、ここの工事は最も慎重《しんちよう》でなければならず、また信長の注文もなかなか難しいのである。
地下の一重は倉庫に。二階は、総柱二百八十本立て、間口二十間、奥行十七間、それを十二畳の書院、次四畳、北三十二畳、南三十二畳、次八畳、東二十畳、次八畳、控え三畳、等々たくさんな部屋数に仕切り、欄間《らんま》や壁障《へきしよう》はすべて総漆《そううるし》、襖には、狩野《かのう》永徳《えいとく》そのほか当代の巨匠《きよしよう》が筆《ふで》をそろえて鵞《が》の間、芙蓉《ふよう》の間、墨梅《ぼくばい》の間、遠寺晩鐘の間などと呼ぶにふさわしい彩管《さいかん》を揮《ふる》っている。
三重の楼、四重、五重、六重と上にゆくほど、間数は少なくなるが、工芸的な構成はむしろ精を極めて、また趣を更《か》えてある。
「五郎左衛門。正月には、ここで屠蘇《とそ》が酌《く》めような」
まだ襖も入らない三重の廊下に床几をすえて、瀬田《せた》、比良《ひら》、また湖水一面の眺望を、すでに恣《ほしいまま》にしながら、信長はまたしても、長秀から期日の言質《げんち》を取ろうとするような口吻である。
長秀も、閉口の体《てい》だったが、
「それはもう正月までには……」と、いってしまって、
「天正五年の新春といっても、はや間近うございます。それがしどもも、木の香新しい御座に侍《じ》して拝賀のお杯を頂戴できるものと、唯今から楽しんでおりまする」
と、その日までに、間に合わせることを、約するともなく約してしまった。
もっとも信長がそう急《せ》き立てるにも理由はある。彼はもうこの十一月の初めに、岐阜の城を一子信忠に譲って、自分は、ほんの手廻品《てまわりひん》と、茶道具一揃い携えただけで、安土の桑実寺に移り来ていた。いわば寺の間借という侘《わび》しき住居である。正月をその寺ではすごしたくないし、事実、越えられもしまい。
こういう背水《はいすい》の陣《じん》を以て催促されているので、奉行《ぶぎよう》たる長秀は、信長が屡《しばしば》見まわりに来るごとに、その扈従《こじゆう》と案内に立っている暇も、実は、迷惑なほど、時間が惜しまれていた。ところが、今日は折よく、
「長浜から羽柴殿が見えられましたが」
と、君前に取次が出たので、よい機《しお》なりと、彼は引き退がって、入れかわりに来た羽柴秀吉に、目礼を交《か》わしながら立去った。