四
毛利家の水軍の一将、浦兵部丞が敢行した姫路襲撃は、その上陸には成功したが、戦には惨敗を喫《きつ》した。
市街戦は夜に及んだ。しかも市街の一角にとどまって、まったく進撃を喰い止められてしまった。
姫山の黒田宗円がその老骨をひっさげて、自身陣頭の指揮に当ったのみでなく、部下はみな強く、みなよく訓練されており、日頃の恩顧《おんこ》に報うは今ぞと、捨身になって敵へかかった。
その敵愾心《てきがいしん》の猛烈さにも、毛利勢はまず一泡吹いたが、より以上、彼等が苦闘に陥った理由は、この姫路の城下町が、他国の城下町とは、まったく異なる性格を持っていたことを知らずにいたことにある。
それは、敵兵の侵攻をうけるや否、城下民のすべてが、兵と化して、火を防ぎ、老幼を避難させ、また思い思いな得物《えもの》を把って、毛利勢へ当って来た予想外な戦力にぶつかって、寄手浦兵部丞も初めて、これは? と狼狽《ろうばい》したほどであった。
町中に玲珠膏という目薬の看板をかけている井口与次右衛門のごときは、たちまち、日頃の店頭のすがたとは打って変って、いわゆる「町屋組《まちやぐみ》」部隊の老将として、むかしを偲《しの》ばせる武者振りをあらわしていた。
そのほか、彼と同じような者は、幾十名も、町中に住んでいたのである。いや町屋ばかりでなく浜の漁村にもいた。
元より船手だの水軍などと称せるような組織はないが、「浜の衆」の一手は、夜に入ると、無数の漁船を放って、沖に纜《ともづな》を繋《つな》ぎあっていた毛利船に近づき、火を放ってこれを焼打ちした。
船にはほんの水夫と兵糧の者ぐらいしか留守していなかったので、ここの戦場は、黒田の「浜の衆」に完全に蹂躙《じゆうりん》されてしまい、幾艘かは焼け沈み、残る船は、あわてふためいて、沖遠く逃げてしまったのである。
海上の火が、陸の浦兵部丞の戦意を、極度に沮喪《そそう》させたことはいうまでもない。潰走《かいそう》はこの刹那から始まった。四分五裂となった浦勢は、やむなく三木城へ通ずる街道の方面へ逃げ争ったが、そのときには、御着《ごちやく》の城を発した黒田官兵衛自身と、その腹心の輩《やから》が、精兵を選んで、随所に兵を伏せていたので、道といわず、畑といわず、森といわず、いたるところで敗敵を捕捉《ほそく》しほとんどこれを殲滅《せんめつ》してしまった。
「……片づいた」
と、宗円と官兵衛の父子が、ほっと大息をつきながら、万感の裡に、無事な顔を見あわせたのは、その夜も明けた朝方だった。
「まず、一時の危機は脱しました。……が、次には敵ももっと腰を入れて来るでしょう。ごゆるりお休みなされませ」
一言、老父に祝したきりで、彼はすぐ御着へ引っ返して行った。松千代の顔も見ずに、妻の無事も見ずに、帰って行くのだった。
御着の城と姫路の住居とは、わずか一里余の距《へだ》たりに過ぎないのに、かくてこの一家族では、妻は良人を見、子が父親に接する日など、半年のうちに一度あるかないかであったのである。