三
一面、秀吉は十月の中旬信長の命に接するや、電光石火、安土に勢揃いして、中国陣総指揮の資格を以て播州《ばんしゆう》へ入った。
これは、敵毛利家を衝撃《しようげき》する以上、安土の宿将たちの心にも大きな波動を打たせた。
「筑前如きまだ未熟な将を中国攻略という大任に、しかも総帥《そうすい》としてお遣《つか》わしになった。ちと思い切ったご登用、破格過ぎはしないであろうか」
という専《もつぱ》らな評の裡に重臣たちの含む不平はよく現われている。即ち、柴田勝家にせよ、丹羽長秀にせよ、秀吉といえば、まだ自分たちより遥か後輩の者としか見ていないのである。それが? ……という気持なのである。
明智光秀なども、意外となした一人らしい。中国発向の場合には、或いは自分に、という期待はいわず語らず自負《じふ》していたふうがある。殊に山陰方面の方策については、度々《たびたび》、献言も試み、尼子一族との間にも介在していた関係上、それは決して、彼の自惚《うぬぼ》れだけのものではない。
だが、誰よりも失望し、また不愉快に思ったらしいのは、伊丹《いたみ》城にある——いく久しく中国と上方との重要な境界に位置もしまた働きもしていた——荒木摂津守村重であったろう。これは当然、前々から、
「俺が」と、自負満々たる者だったのである。秀吉の率いてゆく大軍が、摂津を通過するのを見て内心穏やかならぬものがあったことは争えない。