二
安土の城内には二日留まっていた。三日目の朝、官兵衛は信長に別辞《べつじ》を告げ、秀吉も質子を連れて、長浜へ帰ることになった。
秀吉と共に来ていた竹中半兵衛《たけなかはんべえ》が、昨日から松千代の世話を見てくれていた。その半兵衛が別れるに際して、
「秀吉様のおことばで、ご子息はそれがしの郷里、美濃《みの》の菩提山《ぼだいさん》の城へお預かり申すこととなりました。片田舎ではありますが、ご安心な点では、随分ご懸念《けねん》ない所と思います」
と、告げた。官兵衛は心からそれに謝《しや》したものの、
「いや、それは思わぬご厄介をかけました。ご郷里において、竹中家のご薫陶《くんとう》を得ればあれにも何よりよい修業です。しかし、かかる世の慣《な》らい、松千代の身命については、どうか少しもお庇《かば》いなく、唯々《ただただ》、ご主命のままの者と思召し下さい。如何なる場合に、如何なる事になろうとも、決してあなたをお恨《うら》み仕《つかまつ》るような親心は持ちませぬ」
と、自分の覚悟のほども語った。ただ呉々《くれぐれ》、中国で再会の日近きようにと誓って別れた。
秀吉主従は、船で長浜へ帰った。湖畔《こはん》の水門から湖上へ浮かび出た屋形造《やかたづく》りの一艘《そう》がそれだった。
その頃ちょうど官兵衛も安土の町を離れ、湖畔の松並木を西へ向って歩いていた。供の侍が、
「あれ、筑前《ちくぜん》殿が扇を振っておられまする」
と注意したので、官兵衛は駒を留めて凝視《ぎようし》した。扇の日の丸が赤くうごいている。松千代も側《そば》に見える。竹中半兵衛も見える。
官兵衛も手を振って答えた。顧《かえり》みれば安土の城頭の巍然《ぎぜん》たる金碧《こんぺき》もまさに天下布武《ふぶ》そのままの偉観《いかん》ではあったが、やはり官兵衛の心を深くとらえたものは、この際でも、彼方に打振る一本の日の丸の扇に如《し》くはなかった。何としても、秀吉のそれには、常に情味が伴っている。威武《いぶ》よく人を服せしめるか、情よく人心をつなぎ得るか。もし秀吉が二つのものを持ったらばと官兵衛はひそかに空想した。
その帰途に官兵衛は、供も馬も捨てて丹波《たんば》から山陰へ廻った。これは今度、秀吉と二日間を安土に送った間に結ばれた秘策《ひさく》を果たすためだった。
山陰には尼子氏《あまこし》の一党が諸所に潜伏《せんぷく》して時到るを待っている。その勢力は微少《びしよう》だともいえるが、尼子一族と毛利家との闘争は、実に大永年間、毛利元就《もうりもとなり》が尼子経久領を奪取《だつしゆ》して以来のもので、以後五十余年の長きあいだを、子々孫々にかけて、尼子一族は毛利打倒の戦いを歇《や》めていないのであった。
領土なく一城なく、拠《よ》るに大兵や軍需力《ぐんじゆりよく》がないまでも、あらゆる奇襲《きしゆう》を以て、尼子の浪人は、その精神をつらぬき、その報復《ほうふく》を期し、今も毛利家を悩ましている存在だった。そして、経久の裔《すえ》尼子勝久を擁《よう》して、しきりと山陰に風雲の日を呼ばんとしている者は、勝久の股肱《ここう》、山中鹿之介幸盛《やまなかしかのすけゆきもり》であった。
鹿之介幸盛と安土との間にも、すでに一脈の連絡《れんらく》が通じていた。これも直接ではなく、もっぱら丹波方面に活躍している明智光秀と細川藤孝を介して、他日の内約が結ばれていたものである。——で、秀吉はこの一勢力の重要性も疾《と》くから見ていたので、こんど安土で官兵衛と会い、また信長の内意もほぼ定まるものあるを察して、
(いちど其許《そこもと》も、山中鹿之介幸盛と会って、充分、意志を通じておかれるがよくはないか)
と、暗示したものであった。勿論、官兵衛はその方面の情勢には通じていたし、秀吉がそういうからには、愈《いよいよ》中国出陣の日も近いにちがいないと感じたので、姫路へ帰る予定を急に更《か》えて、単身その脚で山陰へ廻ったものであった。
そのほか、彼の胸には幾多の策が抱かれていた。それを行うには、体が幾つあっても足らない気がした。ほとんど漂泊の一浪人に等しい姿で、約一ヵ月を駆け歩いた。
尼子勝久にも会い、鹿之介幸盛とも熟談した。また但馬《たじま》、伯耆《ほうき》、播磨《はりま》に散在している旧赤松一族の庶流《しよりゆう》を訪ね歩いて、
(天下はかならずかく動く。またかくあるべき天下の将来でなければならない)
という自己の信念を説きまわった。大胆にも彼は、その信念をもって三木城の別所長治《べつしよながはる》にまで会見しに行った。
三木城は由来《ゆらい》、毛利加担の旗頭《はたがしら》といってもよい程、明白なる反信長の旗幟《きし》を立てていたが、黒田官兵衛の熱烈な信念と誠意の弁は、ついに城主の長治をして、
「いわるるが如き織田家の抱負《ほうふ》に偽りがないならば、秀吉西下の時には、織田の一翼となって働いてもよい」
とまでの口約を得て帰った。
別所家も赤松一族の庶流《しよりゆう》であり、小寺家も赤松の流れである。血に於ては近いものを持っている。いわゆる赤松氏の族流《ぞくりゆう》は、中国だけでも三十六家の多数に及んでいる。今日まで、口には出さなかったが、一朝大事にかかる日には、その三十六家の半数を味方に説き入れても優に新しい一勢力を喚び起すことは出来る——とは彼が夙《つと》に抱いていた画策の一つであった。