二
事態《じたい》の急を知って、安土の信長は、さきに子の信忠や、諸将を派遣《はけん》したが、今やまた、毛利家の第二戦線が、上月城の包囲という形を取って、味方を二分した情勢を知り、この上はと、自身、出馬を決意したが、上方《かみがた》はここ数日の暴風雨で河川は氾濫《はんらん》し、途中の危険も報じられていたので、空《むな》しく、幾日かを見過していた。
「いまは、ぜひもなき場合かと思います。上月城一つぐらいは、お見限り遊ばして、秀吉の軍を、後へ呼びもどし、信忠様の軍勢と合して、当面の強敵、三木城の別所長治を一途《いちず》にお攻めあそばすこそ、最も確実なご戦法でござりますが」
滝川一益や佐久間信盛は、しきりと安土の信長へ向って、前線から献言《けんげん》した。すでに織田譜代《ふだい》のなかまには、中国陣開戦以来、秀吉の功をそねむ心理が多分に醸《かも》されていたのである。どこかで一つ秀吉が挫折《ざせつ》するような難局の出現を、心ひそかに待っているような心理にあった宿将も二、三には止まらなかったのである。
信長の令は、安土から直接に、高倉山の秀吉の陣へ、急使となって、伝えて来た。
「——上月城の後詰に蒐《かか》っていることは、取りも直さず、敵の第二戦線の計に乗ぜられるものである。即刻、後退して、信忠様の軍勢とひとつになり、三木の城へかかられよ」
というのにあった。
秀吉は、令をうけると、しばらく、憮然《ぶぜん》としていた。
「この上月城を打ち捨てよとは、城中の尼子勝久や山中鹿之介などを、見殺しにせよとの御意《ぎよい》であろうか。いかにとはいえ、余りにも忍び難い」
と、思うのであった。
ちょうど官兵衛は、この陣にいなかった。ある密命を持って、彼は、備前の岡山へ潜行していたのである。——で軍師竹中半兵衛を招いて、安土よりかくかくの御命であるが、どうしたものかと諮《はか》った。
半兵衛は、水の如くいった。
「お退きになるべきです。安土の御命には反《そむ》けません」
「どうしても、それしかないか」
「ただ、お引揚げの時刻を一夜だけ延ばして、その間《ま》に、城中へお使いを忍ばせ、決死、脱城して、味方に合せよと、最後の連絡をお図《はか》りあるより他に策もございますまい。それも至難とは存じますが」
「亀井茲矩《かめいしげのり》をやってみよう」
そうして、彼はなお一夜中、城中から脱出して来るのを待ってみたが、結局、それは不可能であった。何としても、毛利の厚い包囲環《ほういかん》を突破してこれへ来ることができないのであった。
いよいよ陣払いして、そこを去るまで、秀吉は、孤城の味方をながめて、繰返し繰返し嘆いていた。
「彼等は実に、大永四年以来、五十七年の長き間を、怨敵《おんてき》毛利家と戦いつづけ、父子二代三代にかけて、尼子の再興を念願し、こうして織田軍の西下を機に、信長公におすがりして、味方となって一功をも挙げて来た者なのに——今、それを打ち捨てて尼子勝久も山中鹿之介をも、見殺しに遊ばされては、この秀吉ごとき一将の立場はともあれ、信長公ともある御名《おんな》の名折れ、やがて中国筑紫《つくし》の果てまで、ご征伐を遂げられた後々まで、世《よ》の誹《そし》りのたねとなろうに……。真《まこと》にくちおしい事ではある」
友軍の荒木村重は何の未練《みれん》もなく、すでに書写山へ先発している。秀吉はしんがりを残して、徐々、後退を開始した。彼の心情として、この戦陣ほど、自己の心に反《そむ》いて、しかも空しく後退するの他なきような辛い戦はした例がなかった。作戦はいつも覆《くつがえ》され易《やす》いものだ。しかしそれが敵にくつがえされる場合は当然な戦争だが、味方の方からそれをくつがえされたときほど、三軍の将として、哭《な》くにも哭けない辛さというものはない。