二
この期間に、播磨《はりま》備前《びぜん》の国境の捨児、尼子一族の拠《よ》っていた上月《こうづき》城は、必然な運命に委されて落城した。
尼子勝久は、切腹して、城兵の助命を敵に仰ぎ、山中鹿之介幸盛は降人《こうじん》となり、毛利の軍門にひざまずいた。
「周防《すおう》の地で五千石の知行《ちぎよう》を与えよう。旧怨《きゆうえん》をわすれて、長く毛利家に仕える心はないか」
吉川元春も小早川隆景も、彼を優遇してこう沙汰したのである。鹿之介は、
「望んでもないこと」
と、恩に服し、その妻子や郎党など三十人ほどを伴って、芸州《げいしゆう》へ護送されて行ったのであった。
不撓不屈《ふとうふくつ》、主家再興のために、大国毛利を敵として、数十年間、ここまで百難に剋《か》ち百難に屈せずに来た彼が、一転、余りにもみじめなそして愍《あわ》れむべき物腰であった。
——が、鹿之介の胸には、この最期《さいご》の最期にいたるまで、まだ、
(ただは死なぬ)
と、ひそかに秘していたものがあったのである。それは、敵国へ曳かれて後、吉川元春なりあわよくば毛利輝元なりと、刺し交《ちが》えて死なんとすることだった。
しかし、彼の降伏を、毛利方でも初めから充分に懐疑《かいぎ》していた。
(彼ほどな男が?)と。
主人勝久はすでに切腹している。主家尼子家は血において断絶したのだ。美禄《びろく》を獲《え》てのめのめと自己のみ半生の栄耀《えいよう》を偸《ぬす》むような鹿之介幸盛であろうはずはない。——そうすでに看破していた吉川家の部下は、護送の途中、備中松山のふもとの河部《かわべ》の渡しへかかったとき、渡舟《わたし》を待つ間に鹿之介が汗を拭っているすきを窺《うかが》い、うしろから不意に太刀を浴びせた。
鹿之介は川へ飛び入ったが、かねて謀《はか》っていたことなので、岸から船中から投げ槍を下し、また相継いで川へ飛び込んで格闘《かくとう》し、ついにその首級《しるし》を挙げてしまった。
鹿之介の血は、一時、甲部川を紅《くれない》にした。
年三十九だったという。
この報告を聞いたとき秀吉は、
「可惜《あたら》、男を」
と、官兵衛、半兵衛などを顧《かえり》みて、さも傷《いた》ましそうに舌打ちした。
が、黒田官兵衛は、すぐそれに答えて、彼の傷む胸をなぐさめた。
「上月城一つは、ついに敵へくれてしまいましたが、それに何十倍するものを、間もなく此方が取るでしょう。この局面たりと、決して、お味方の負けにはなりません」
「……ふむ、あれか」
秀吉にも、心待ちに、待たれるものがあった。それは、さきに官兵衛が、陣中を抜けて、密《ひそ》かに使いに通っていた備前の浮田直家《うきたなおいえ》の向背《こうはい》であった。