一
秀吉が但馬《たじま》から帰陣すると、信長の本軍は、一翼を加えたので、本格的に、三木城の攻囲《こうい》にかかった。
そしてまず三木城の衛星的《えいせいてき》要害をなしている神吉《かんき》の城や志方《しかた》の城を、たちまち陥した。
だが、別所一族が七千余人を以て守る三木城の本拠《ほんきよ》そのものは、いわゆる天嶮《てんけん》を占めているし、一族郎党の血にむすばれている強兵だし、加うるに、海路毛利方から新鋭の武器兵糧も充分に籠め入れてあっただけに、到底、短期間にこれを攻めつぶし得る見込みはなかった。
安土の方針も、長期を覚悟して、根気攻め兵糧攻めにするほかなし、というところにあったので、八月に入ると、信忠はあらかたの大将とその諸部隊を従えて、一応、安土へ引揚げてしまった。
「あとは、長囲《ちようい》になろう。お汝《こと》に委《まか》しておく」
というのが、還るに際しての、秀吉へのことばであった。
秀吉はこれにも唯々《いい》として、
「ご心配なく」
と、答えた。そして前と比較にならない寡勢《かせい》をもって、三木城の正面、平井山にその長囲態勢《たいせい》の本営をおいた。
信忠の引揚げには、一方、もうひとつの理由があった。それは、毛利方の吉川、小早川の大軍が上月城を攻め陥すとまもなく、戦況の持久的になるのを察して、吉川元春は出雲《いずも》へ、小早川隆景は安芸《あき》へ、それぞれ退いてしまったことにある。
実に、戦況の相貌《そうぼう》は、不測複雑である。
離反常なし、という戦乱下の人心は、いまや遺憾《いかん》なく、その浮動性を露呈《ろてい》して、
(毛利に拠《よ》るが利か。織田に属すが勝か)
を見くらべて、朝に就き、夕べに去り、ほとんど、逆睹《ぎやくと》し難《がた》いものがあった。
備前《びぜん》、播磨《はりま》の国境から、毛利軍が引揚げを行うとともに現われたものが、浮田直家の裏切りだった。
彼が、備前一国をあげて、毛利家を去り、織田家へ就いたということは、これは由々《ゆゆ》しい戦局の変化であり、織田家にとっては画期的《かつきてき》な好転といっていい。信忠と、信忠に従う諸将は、この有利な新情勢を土産として、一応の凱旋《がいせん》をなしたものであるが、何ぞはからん、これを実現させた者は黒田官兵衛の足と舌であった。
もちろん主人秀吉も同意の上ではあり、竹中半兵衛の頭脳《ずのう》も多分に働いた上の主従一体の力ではあるが、それを動かすにもっぱら足を運び舌を用い、生命を敵地にさらして、何度も密使行の危険を潜《くぐ》っていたものは、官兵衛であったのである。
浮田の家中に、よい手蔓《てづる》もあった。直家の家臣の花房助兵衛とよぶ者である。これはいわゆる「話せる男」で、たちまち官兵衛と意気相照らし、紛々《ふんぷん》たる藩中の異論を排《お》しのけて、主人直家に織田随身の決意をなさしめてしまったのである。