一
「折入ってのお願いです。私に数日のお暇《いとま》をいただかせて下さい」
官兵衛はそういって、秀吉の前に手をつかえた。一夜を懊悩《おうのう》した結果である。自責《じせき》から来た深刻な決意が眉にも漲《みなぎ》っていた。
「どこへ行く」
この危局をいかに処すか。秀吉もまだ熟考中とみえる。言下に、よろしいとはいわないのを見てもわかる。
きのう以来、秀吉もまた、滅多《めつた》に見せない沈痛な面持を、自ら如何ともし難い容子《ようす》にあらわした。——その姿を仰ぐも辛そうに、官兵衛はさらに額をつけていった。
「一鞭打って、御着《ごちやく》まで行って参りまする。私がそこへ臨む以上は、断固《だんこ》として、家中の異分子を片づけ、主人政職には意見を呈し、かならず浅慮《せんりよ》な変節を正さずには措きません」
「さあ、どうかな? お汝《こと》が行っても、今となっては」
「いや、お遣《つか》わし下されば、たとえ官兵衛の一命を賭しても……」
ことばの上だけではない。官兵衛はその生命がけな気持を、眸《ひとみ》にもこめて、秀吉の唇許《くちもと》を見つめた。
この播州にあっては、何者よりも鞏固《きようこ》でなければならない御着の城が——その小寺政職が——脆《もろ》くも信念をくずして、荒木村重の謀反《むほん》とともに突然、離反を唱えて毛利家へ通じ、世をあざむく寝返りを打ったということは、黒田官兵衛としては哭《な》ききれない事にちがいない。心外も心外、無知無節操の甚だしいものと、夜来、その眼の赤くなっているのを見ても、彼の憤《いきどお》りのただならざるものが分る。
事実、当初のいきさつから考えても、彼の立場は根柢《こんてい》から覆《くつがえ》されたものといっていい。安土の信長に対しても、秀吉に対しても、ひいては、自身説き廻って、織田方へ引き入れた播州土着の郷党たちに対しても、どこに合わせる顔があろう。武門の信義があろう。生きて立つ名分があろう。——気を小さく持てば、腹を掻っ切って自己の廉潔《れんけつ》を示す道一つが残されているだけである。
「どうぞ、数日のお暇を、この官兵衛に与えて下さい。かならず直ぐ立ち帰って参りますゆえ」
懸命の余りに、彼は繰返していったが、秀吉の眼がふとうごいて、そういう自分の面を見まもったので、官兵衛は、はっと悔《く》いに似た反省を抱いた。
不可ともいわず、行けとも許さず、容易に答えてくれない秀吉は、その胸の中で、もしやそのまま自分が御着から帰陣しないのではないかと——ひそかに懸念《けねん》しているのではあるまいか。
秀吉の立場になってみれば、そういう疑いを抱けない事もない。今の如き時代だ、また人心だ。ましてここ織田方の旗色は断然悪い。
——いい過ぎた。すぐ帰って来ますからなどということは、かえってその懸念を濃くさせるようなものであった。官兵衛はそう気づいたので、なお自分の誠意をいい足そうとして面を上げかけると、ふいに、
「行って来い」
秀吉は褥《しとね》からずり出して、いきなり官兵衛の手をつかみとり、力をこめていった。
「辛いだろうが行って来てくれ。——其方にとっては、小寺政職はどこまでも主人だ。わし以上切れぬ仲の人でもある」
「では、おゆるし賜《たま》わりますか」
「お汝《こと》を措《お》いて、誰がよくその任に当れよう。ただ筑前が案じていたのは、其方の生命だ。危険は充分にあるぞ」
「覚悟の前にござりまする」
「——それがいかん」
秀吉は汗をかいた手を離した。そして膝へ膝をつき進めて、
「小寺の家中が、危害を加えんとする惧《おそ》れも充分ある上に、その方自身が、死を選ぶ惧《おそ》れもわしは多分に抱くのじゃ。——ひとたび離反《りはん》を口に出した者というものは、後難を案じるため、いかに説いても、容易に思い止まらぬものだ。——たとえその方の誠意を以てしても、御着一城の者が何としても固執《こしつ》して動かぬ場合は……官兵衛、お汝《こと》は何とする?」
「…………」
「死ぬなよ。そのときには、腹を切って、信長公や、この筑前に、申し訳をせんなどと、狭量《きようりよう》な考え方をするのでなければ——行って来るがいい。大いにやって来てくれい」
「死にませぬ」
またしても、この人の言には、哭《な》かされてしまう。
官兵衛は、涙と筋肉を、顔中に闘わせながら、断固《だんこ》としていった。
「行って来ます」
「うむっ」
力づよい声を以て、秀吉は大きく頷《うなず》いてくれた。官兵衛はすぐ退《さ》がった。
「後刻。あらためて、お暇乞《いとまご》いに、もう一度参上いたします」