五
絵図面《えずめん》の上で知っておいた予備知識と、実際に地を踏んでみた感覚とでは甚だ勝手のちがうものだ。それも平時ならばともかく、こう激戦の中と化した城内であり、目じるしとする建物も樹木も火や煙につつまれ、そして想像していた以上、廓内も広いのであった。
「どこか。——獄屋は」
「官兵衛様のいるところは」
駆け分れた黒田武士たちは、ほとんど、それを的確《てつかく》につきとめ得ることの至難にみな長嘆した。奔命につかれ、気はいよいよあせるのみだった。
あせればあせるほど、かえって目標を失いやすいと沈着を努めながらも、満城の焔を見ては気が気でない。火焔は時を仮借《かしやく》していない。一歩を誤らんか、せっかくそこを捜しあてても、あとのまつりとなることは知れている。狂奔《きようほん》せずにはいられなかった。
「久左衛門、知れたか」
栗山善助と母里《もり》太兵衛のふたりが、櫓下附近で出会いがしらに訊ねた。衣笠久左衛門は渇《かわ》いた声をして、
「まだ、まだ。……各には」
と、問い返した。
「いや。こちらもまだ見当がつかぬ」
「どこぞで、池は見ないか。藤棚のある池を」
「その池を、余り目あてにし過ぎたため、ほかの曲輪の池を見て手間どったのだ。北曲輪はこの辺らしい。櫓はそこだし」
「池を探そう。建物ではわからぬ」
松林のあいだを、下へ向って駆け下りた。落葉《か ら》松《まつ》もそこらの灌木もみな煙をあげていた。
「——やっ。女らしいが」
栗山善助は勢いよく躓《つまず》いた後、その足にかけたものを振り向いた。煙の下に一人の女性が気を失って仆《たお》れていたのである。
「於菊《おきく》どのだ」
と、絶叫したのは、その前に立って、躓《つまず》かぬうちに立ち止まった太兵衛と久左衛門とであった。
「なに、於菊どのだと」
抱き起して、声かぎり耳元で呼んだ。於菊は、意識づくと、あたりの者の顔も見ず、矢のようにして走り出した。
池のそばへ出た。池の水、そして広い藤棚。それを見ると、彼女のあとについて、共に駆けて来た栗山善助や母里太兵衛たちは、
「あっ。ここだっ」
と、思わずどなった。
——と見るうちに、彼女はもう池のふちを腰まで浸《ひた》って、龍女のように、しぶきをあげながら、獄舎の建物の下をざぶざぶと進んでいた。
「——官兵衛さまっ」
彼女は藤の木につかまった。そして死にもの狂いで高いところへ攀《よ》じて行こうとしていた。その下から衣笠久左衛門ものぼって行った。そしてようやく獄の窓口へ手をかけてさし覗いたが、中はすでに赤く晦《くら》く、何ものも見えなかった。
一方、栗山善助と母里太兵衛は、べつな入口から入って獄屋の大床を区切った太い格子組の前に出ていた。荒木の家中らしい武者四、五名を見かけたが、敢て遮《さえぎ》りもせず逃げ散って行った。ふたりは獄外を見まわして、約二間半ほどもある角の古材木が一隅に寄せつけてあるのを見つけ、二人してこれを持ち、撞木《しゆもく》で大鐘を撞《つ》くように、その突端を牢格子へ向って何度も打《ぶ》つけた。
みりっと一部が破れた。あとは一撃二撃だった。躍り入るやいな、二人は声いっぱい叫んだ。
「殿っ。おむかえに参りました」
「姫路の家臣の者ですっ、殿っ、殿っ。……」
見まわした。らんらんと獄中を見まわした。官兵衛のすがたが容易に見当らないからである。
——が、官兵衛はなお健在だった。熱気と煙に、あの冷たい北側の壁も湯気をたてていたが、そこを背にしたまま、彼はなお枯木のような膝を組んで坐っていたのである。
「……?」
いま、突《とつ》として、眼のまえに、思いがけない家臣のすがたを見、その忠胆《ちゆうたん》からしぼり出るような声をも、あきらかに耳にはしたが、彼はなお茫然《ぼうぜん》としていた。容易に信じられなかったのである。
「あっ。そこに」
「おうっ。……おうっ」
慟哭《どうこく》して抱き合うかのごとき異様《いよう》な声がやがてそこに聞えた。走り寄ったふたりは、すぐ、主君の身を扶《たす》け起していた。その主君の身の軽いことに驚いたとたんに、上の高窓を破って衣笠久左衛門も跳《と》び降りて来た。