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黒田如水133

时间: 2018-11-16    进入日语论坛
核心提示:草履片方・下駄片方二 姫路城の大改築は、官兵衛が帰ってからわずか数日後の、二月早々からもう着手され出した。 秀吉の方から
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 草履片方・下駄片方
 
 姫路城の大改築は、官兵衛が帰ってからわずか数日後の、二月早々からもう着手され出した。
 秀吉の方からも奉行《ぶぎよう》として、浅野弥兵衛を。また手助けとして、多数の人数をよこした。
 元々、この姫山の城は、黒田宗円が住居として建て、その後、家運の興るとともに、郷党をあつめて一族の砦《とりで》としたものに過ぎないので、時代の築城学上から見ては、ほとんど、改築というよりは、全部、再構築を要するほどな価値しかない。
 で、旧館はことごとく毀《こぼ》たれた。新しき石垣組の線は高く美しく築かれてゆき、天守閣《てんしゆかく》が建つ所の鑿《のみ》の音や手斧のひびきは、摩天《まてん》の丸太足場に、時代の黎明《れいめい》の来るのを、この国にも告げている。
 しかし、普請は普請、戦いは戦いで、こういう間にも、秀吉を中心とする、以後の中国攻略は、片刻《かたとき》も休んではいない。
 二月、官兵衛は秀吉と諜《しめ》し合わせて、児島地方に使いし、岡山の浮田直家に会い、共に企策《きさく》して、毛利家との境に、幾つもの城塞を築かせ、まず境を固めて、児島地方の一勢力高畑一族を味方に説き降して帰った。
 帰るやまた、普請を見、ふたたび出ては、秀吉の軍に従い、英賀城の三木通秋《みちあき》を攻め、長水山の宇野政頼を陥し、山崎城の宇野祐清をも討伐した。
 六月、初めて、これらの掃討戦は一段落した。播州《ばんしゆう》但馬《たじま》の二国に亙って平定を見たのである。
 姫路の城も、ほぼできた。秀吉は、三木城に、舎弟の羽柴秀長をのこし、そのほかの士馬全軍を移して、爾後、姫路の新城を根拠とすることになった。
 この山の草分けである官兵衛の父宗円は、さすがに回顧のなつかしさ切なるものがあるらしい。彼は最後の最後まで、旧館の一棟に住んでいたが、いよいよ秀吉が移ることとなったので、官兵衛の妻子眷族《けんぞく》とともに、御着《ごちやく》の城へ引っ越した。
 この春以来、御着の城は空家になっていたのである。なぜならば、赤松氏以来、そこに住んでいた黒田家の主筋の人たる小寺政職《まさもと》やら老人たちは、あれほど官兵衛が、
(時代はかく成りますぞ)
 と、あらゆる忠諫《ちゆうかん》と、身を以て、この主家の動向を過《あやま》らすまいと努力したのにかかわらず、その官兵衛を荒木村重に売り、村重と呼応《こおう》して、再度、節義を変え、信長に反《そむ》き、あらゆる妄動《もうどう》と醜態を世に暴露《ばくろ》してしまった。
 ところがたちまち、村重は滅ぼされ、恃《たの》む三木城も陥落し、俄然、足もとの危急に気がつき出している所へ、
(官兵衛が姫山へ帰って来た)
 と、聞えたので、元より何らの実力も信念も持たない小寺政職以下、詐謀《さぼう》、日和《ひより》見《み》の偽装でこれまでようやく通って来た老臣たちも、すわと怖れをなし、あわれ主家は主家、彼らは彼ら、一夜のうちに御着を捨てて、みな思い思いの地方に逃亡してしまったものである。
「四散した旧主の城へ移り住むのも心苦しいが……」
 と、宗円は好まぬふうだったが、官兵衛から、しばらくのご辛抱ですからと慰められて、ぜひなく、そこへ移って行った。
 七月初旬。——秀吉は新城にくつろぐ遑《いとま》もなく、またすぐ軍をすすめて、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》の国境に転戦した。飽くまでも積極的な秀吉の日々夜々であった。秀吉の遑《いとま》なき活動ぶりと頭脳とは、いつも月日の先を進軍していた。
 この方面の事を了《お》えて、秀吉が姫路へ帰って来たときは、もう九月となっている。木の香、丹青《たんせい》すべて新しき城に坐して、秀吉は初めて、こういった。
「お汝《こと》の老父や妻子は今、どこに住居させておるのだ」
「御着をいただいたので、御着に移らせました」
「ああ、そうだったな。御着も古城でいと狭い小城と聞く。かようなよい地を去って気のどくだの」
 秀吉は一通の感状に目録《もくろく》を添えて官兵衛に授けた。これは秀吉から信長へ要請《ようせい》してゆるしを仰いだものである。
 播州において一万石の領地を与う。
 という信長の墨付であった。目録には、揖保《いぼ》郡福井、岩見、伊勢村の内にて——と地行割も指定してある。
「過分にぞんじまする」
 謙遜ではない。真実のよろこびだった。彼は初めて大名の列へ加えられたのである。
 年十六歳から小寺家に仕え、初めの禄は四十石だった。二十余歳となり、稀な若家老として勤めてからも、その禄高は数百石を出ていなかったのである。かえり見れば爾来二十一年、その間の苦節苦衷《くちゆう》、死生の外の艱難悪闘はことばにも絶えている。五体のうちなお四肢の揃っているのは、ふしぎな程である。戦国の将士みな風雲に会して、顕《あら》わるる僥倖児《ぎようこうじ》と後人に見られやすいが、この時代においてすら、人生、大名となるもまた難い哉《かな》であった。——とにかく官兵衛は正直によろこんだ。その目録感状を持って、老父のいる御着へ駆けて行ったであろうことは疑いない。彼もすでに三十余歳、陣中にあっては鬼謀《きぼう》の勇将と恐れられているが、家にあっては、まだ達者な親を持っている子どもであった。
 
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