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平の将門19

时间: 2018-11-24    进入日语论坛
核心提示:素朴な読書子 いかめしい、八省十二門のうちには、兵部省もあり、刑部省もあり、また市中には、検非違使もいるのに、どうしてそ
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 素朴な読書子
 
 
 いかめしい、八省十二門のうちには、兵部省もあり、刑部省もあり、また市中には、検非違使もいるのに、どうしてそんな群盗どもに横行されているのか、小次郎には、ふしぎでならない。
 けれど、供待ち仲間の、諸家の奴僕や舎人たちの放談が教えるところによると、
「こうなるのは、あたりまえだ……」と、みないって、憚らなかった。
「御政治がわるいのさ。……いや、悪いにも、いいにも、今は、御政治なんかないんだから、群盗たちには、こんなありがたい御世《みよ》はない」
 話題が、この理由と、原因ということになると、小次郎は、いつも、肩身がせまくなった。なぜならば、彼の仕えている主人——右大臣藤原忠平が、だれよりも、くそみそに、悪口の対象になるからであった。
 忠平は、氏《うじ》の長者として、いまや藤氏《とうし》の一門を、思うままにうごかし得る身分であるのみでなく、朝廷の中でも、かれの一びん一笑は、断然、重きをなしている。
 それは、さきに、若くて亡くなった、左大臣時平の位置と権勢とを——弟の彼がそっくり受け継いでいるからであるが——兄の時平とは、その政治的な才腕も、見識も、抱負も、人間そのものも、まるで段ちがいに、格落ちしているのが、いまの右大臣家であるというのだ。
 すくなくも、前《さき》の左大臣時平は、菅原道真を、政敵として、辛辣《しんらつ》な政略や、自閥本位な謀略もずいぶんやったが、また、地方の農地改革だの、民心の一新だの、財政と文化の面にかけて、かなり理想ももっていた。それが、惜しくも、三十九という若さで、病死してしまったため——時平の才幹は、まだ、政治のうえに実現はされなかったが——だれも、人物は、認めていた。
 ところが、弟の忠平と来ては、比べるにも、おはなしにならない。
“宮中の狡児《こうじ》”
 という評が、それを尽している。
 優柔で姑息。わがままで、華奢放逸《かしやほういつ》。優れているのは、管絃と画だけだ、とみないうのである。
 画は、自慢で、かつて扇に、時鳥《ほととぎす》を画いたのを、長明《ながあきら》親王にさしあげた。親王が、なにげなく、扇を開かれると、要《かなめ》が、キキと鳴ったので、
(あ。この時鳥が啼いた——)
 と、戯れに仰っしゃった。それをまた、おべッかな公卿たちが、そばから、
(さすがは、お筆の妙、名画のしるし、時鳥は画いても、啼く声までを画きあらわした者は、古今、忠平の君おひとりであろう)
 などと賞めたてた。
 それを忠平は、自分で、自慢ばなしにしたり、歌の草稿などにも、自ら“時鳥の大臣”などと署名している。
 また甥《おい》の敦忠《あつただ》は、管絃の名手なので、これをあいてに、和琴、笛などに憂き身をやつし、自らの着る物は、邸内に織女《おりめ》をおいて、意匠、染色、世間にないものを製して、これを、誇りとするような風だった。
 ちかごろ、宮廷のうちも、際だって、華美になり、むかしは、天皇のほかには着なかったような物を、一介《いつかい》の史生《ししよう》や蔵人も着かざったり、采女《うねめ》や女房たちが、女御更衣にも負けずに艶《えん》を競ったり、従って、風紀もみだれ、なおかつ、廟議や政務にいたっては、てんで、怠り放題な有様である。
 こういう大官や宮廷のもとに、ひとり刑部省や兵部省の官人たちだけが、精勤とまごころを以て、服務を看ているはずもない。——かれらは彼らの領野において、やはり同じ型の逸楽と役徳をさがして時世に同調している。群盗にとってありがたい御世たる所以のひとつである。
 こんなふうに、ここ輦溜りの供待ちで、小次郎が、毎日、見ること聞くことは、なに一つとして、ろくな事ではない。
「下司《げす》は、口さがないものというが、まったく、うるさい京雀《きようすずめ》だ。この人たちは、人間の醜《みにく》いところと、世の中の汚いところばかりに興味をもっている。そんな裏覗きばかりしないで、もっと、人間と此世《このよ》の、いい所、美しい所も、少しは、見たらどうだろう」
 小次郎は、時には、ひとの放談に、われを忘れて、おもしろがりもしたが、また、折には、腹が立って、なにか、反抗して見たくもなった。
 なぜ、というまでもなく。
 彼は、今でも、この平安の都を、美しい花の都として、抱いていた。初めて、不毛の坂東曠野から上洛《の ぼ》って来て——京都に入る第一歩を、あの高い所において、加茂川や、大内裏や、柳桜の、折ふし春の都を、一望して、
(ああ、こんな天国が、人間のすむ地上にあったのか? ……)
 と、恍惚として、憧憬《あこがれ》の満足に涙をたらした——あの日の印象を、いまもはっきり持っている。その、幻影でない、現実を、彼はいつまでも信じたい。
 そして、自分も、その美しい都人のなかの一人となり得たことを誇っていた。汚《けが》したくない。ゆめ、傷つけたくないのである。
 さらには、また、
 故郷の人々からもいわれた通り、ここに遊学した効《か》いを見せて、都の文化に習《まな》び、よい人物になって、ひとかどの男振りを、いつの日かには、故郷下総の豊田郷にかざって帰りたい。——
「だが、勉強のほうは、まるでだめだ。藤原氏の子だと、勧学院《かんがくいん》にも入学できるが、東国生れの小舎人では……」
 彼の素朴は、まだ上京の初志を、わすれてはいなかった。だから、夜間、ひそかに夜学したり、昼も、この輦溜りでつぶす多くの時間を、なるべく、読書することにしていた。
 ——で、今も、轅と轅のあいだに、ひとり潜んで、近ごろの学者といわれる三善清行《みよしきよつら》の家人から借りた何かの書物を、ふところから取出して、読み耽っていた。
 すると、たれやらその側へ来て、だまって、小次郎の手の書物を、共に、見おろしている者があった。
 直衣《のうし》姿《すがた》の、身分のひくい青侍《あおざむらい》で、年ばえも、小次郎にくらべて、幾つもちがわない——三ツ四ツ上か——ぐらいな青年である。
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