将門が初めに挙げた火の手ではない。
嵯峨源氏のせがれ達が、将門の叔父の大掾国香や良正、良兼などに、うまく唆《そその》かされて、野爪に待ち伏せした事の——失敗から大きくなった戦火である。
五月四日という夏も初め頃の真澄《ますみ》の空に、ばくばくたる馬けむりや炎が立ったのを見て、坂東平野に住む、多分に原始的性格をもつ人間たちが、
「それっ、合戦だ」
と、こぞり立って、煙を目あてに、野の十方から、駈け出したことは、たしかに、ここの広い土壌にもめったにない大異変であった。
しかも、その駈け出す者のほとんどが、優勢な常陸源氏のせがれ達の陣地へ行かず、豊田の殿の為に——と、将門方へついたという事も、彼にとって、幸か、不幸か、わからなかった。なぜなれば、そのため、俄然、将門は優勢となり、ほとんど、彼の思うままに、戦は勝ってしまったからである。
その勝ち方がまた、じつにひどかった。
扶たちの野寺の陣は、やがて将門について押し襲《よ》せた郎党と土民軍の攻勢に会って、一炬《いつきよ》の炎にされてしまい、潰走する扶たちの部下も何十人となく討たれた。
その中で、気のつよい源隆が、矢にあたって、討死したし、また、三男の繁も、逃げそこなって、落命した。
こうなると、野獣化した猛兵は、とどまるところを知らないし、第一、将門自身が、憤怒《ふんぬ》の権化《ごんげ》像の如きものであったから、勢い、常陸領へ越境し、野爪一帯ばかりでなく、大串、取木などの郷を焼きたて、常陸源氏の与党の宅舎から、武器を取り出したり、郷倉を破って、兵糧を獲《え》たりして、ついに翌日も翌々日も、敵地を荒しつづけ、その範囲は、筑波、真壁、新治の三郡に及んだ。
しかも、この襲撃で、源護の大串の館をも、焼き払い、そのさい、遂に、護の嫡子扶も、火中の戦いで、討ちとってしまった。
いや。酸鼻《さんび》は、これだけに止《とど》まらない。
大掾国香も、見ているわけにゆかないので、大串へ加勢に馳けつける途中、将門のために、返り討ちになった。その場で討死したのではないが、負傷して、一たん石田の居館まで逃げ帰り、その晩、苦しみにたえかねて、自害して果てたのだった。
そのほか、将門の前を阻《はば》めたり、敵対したりした郷吏《ごうり》の小やしきだの、社家《しやけ》だの、民家だの、貯備倉だの、焼きたてた数はかず知れなかった。「古記」によると、焦土《しようど》となるもの五百戸、人畜の死傷もおびただしく、曠野の空の燻《いぶ》ること七日七夜に及んだという。
以て、いかに、怒れる阿修羅のあばれかたが、ひどいものであったか、想像に難くない。
おそらくは、七日のあと、大雨《たいう》一過《いつか》して、さしも、いぶり燃えていた曠野の火も血も洗い消された後では、将門も、凱旋《がいせん》の誇りもさめて、
「……ちと、やりすぎたかな?」
と、自分のした事に自分で茫然としたかもしれなかった。
けれど、これ以後、豊田の館は、家人郎党で、充満してしまった。彼らはもう勝手に将門の股肱《ここう》であり、郎党であるときめて、野の家には、戻らなかった。将門に臣事すること、先代良持のような礼をとって、
「わが、お館」と尊称した。
もっとも、常陸から凱旋するときに、敵地の馬は、何百頭も曳いて来たし、その馬の背には、財物、食糧など、積めるだけ積んできた。彼らにいわせれば、
「多年、わがお館の先代良持さまの荘園田領を、横どりしていた人間の物だ。これくらいは、年貢としても、取上げてやるのが当りまえだ」
と、いうのである。
野爪の合戦の結果が、やがて四隣にまで聞えわたると、久しく音絶えていた父方や母方の縁類までが、おのおの豊田の一族と名のって、幾組も将門を訪ねて来た。そして口を極めて、
「こうあるのが、当然じゃ。これは、和殿《わどの》をまもる亡き良持どのの計いであろ」
と、戦捷《せんしよう》を祝した。
それら縁類の家族も、またいつか、豊田の館の附近に、門を並べて住み始めた。豊田の郷はもう昔年のさびれた屋並みではなく、商戸も市も繁昌を見せ始め、この地方の小首都らしい殷賑《いんしん》を呈してきた。住民の尊敬もまた、将門の一身にあつまり、いまや良持のありし日がそのまま豊田の館にはめぐり還って来るかに見えた。
戦乱の結果は、たちまち、広い土壌の移動になって、現われた。常陸荘園の大半が、国香や護の支配をはなれて、将門の下に帰属して来たのである。
土と人の流動は、いつもこういう事から、形を変えてゆく。まして、かつては、元々、豊田領であった土地が多く、人もまた、良持に縁故の輩《ともがら》が多かったのであるから、その帰属は、自然な作用であるといえなくもない。
しかし、常陸源氏や筑波の良正、良兼などから見れば、事態は坐視できないものであった。殊に良正のうけた精神的な打撃は、ひと通りであるまい。彼は、この大事件をひき起した蔭の煽動者として、第一に、源護の仮館《かりやかた》へ、謝罪に出かけた。
「かならず、甥の将門を討って、御子息方のおうらみをはらします。きゃつめを、八ツ裂きにして、その肉をくらわねば、私の胸もおさまりません」
十遍も百遍も、良正は床にひたいをすりつけて、護に謝罪した。それを、詫びの、誓いとした。
護は、館を焼かれるし、息子たち三人は、一時に、戦没してしまったし、それに老齢なので、焼け出されの仮普請《かりぶしん》の中で、このところ、ぼうと、虚脱していた。
「わしの身になってくれい。無念じゃ。ただ無念じゃ。嵯峨源氏の兵をあげて、わぬしに委せてもいいが、あの将門が討てるかよ、あの将門が」
「多寡のしれたものです。ただ過日は、御子息がたが、余りにも、彼をあまく見過ぎたための不覚でした」
「それにしても、どうして、なぜ、せがれ達が、将門と、あのように、争わねばならなかったのか。喧嘩は、元々《もともと》、お汝《こと》たち叔父甥の事とばかり思うていたによ。……それだけが、わしにはなお、いくら考えても、判じられぬが」
「いや、そ、その事はですな」と、良正は、苦しそうな顔をして、額を抑え——「いずれまた、折を見て、ゆるりと、おはなしいたします。これには、深い仔細もあり、御災厄は、何とも、お察しされますが」
しどろもどろに、いいつくろい、匆々、護の前を立ち去った。
一方。——彼は京都へ、早馬を立て、書状をもって、今度の事件と、大掾国香の横死を、こまごまと国香の嫡子《ちやくし》貞盛へ、報らせておいた。
貞盛の驚きは、いうまでもあるまい。
つい先頃、別れて来たばかりの老父の死。
また、自分の右馬允昇進を、あんなにも、有頂天に、よろこんでいた老父。
——だが、考えてみると、余りにも、吉事吉事のかさなりを、思いあがって、人の世の中を、自分らの意のままに、あまく見過ぎていた結果の禍いであったとも、貞盛は、反省せずにもいられなかった。
なぜならば、都へ帰る数日前の別れの宴で、老父の国香や、将門の叔父良兼、良正などが語っていたことは、余りにも、得手勝手な望みであり悪企《だく》みであった。いくら同族の父や彼等が憎悪している将門でも、すこし将門が不愍《ふびん》になるくらい、悪意にみちた、陰謀の会合であった。
「あのとき、つよく、そんな企みは、止めておけばよかった。——が、自分も悪かった。自分も、右馬允任官に、まったくいい気でいたところだったから」
何はともあれ、都へ帰ったばかりであるが、ふたたび帰国しなければなるまいと、彼は、倉皇《そうこう》と、官へ賜暇願いを出して、またぞろ、旅装を新たにした。
水守の良正は、都から貞盛が、夜を日についでやって来たと聞いたので、さっそく、石田の館へ、彼をたずねた。そして、何とも気のどくそうに、
「……どうも、このたびは」
といったきりで、ちょっと、なぐさめる言葉が出なかった。
貞盛は、道中で疲れてもいたろうが、良正に会うと、何ともいえない不愉快な顔をしめし、
「叔父上。えらい愚をやりましたな。何とも、ばかな事を——。いったい、良正どのは、老父のそばにいなかったのですか。あんな老人を、先頭にたたせて、あなたや良兼殿は、どうしていたんですか」
と、涙をたたえて、やや突っかかりぎみになじった。
「誤解してはこまる」と、良正は、当時のもようを、つぶさに説明して、「よせばいいのに、源護どのの大串の館があやうしと聞いて、あの御気性だ……止めるもきかずに馬を馳せ、将門めに、射られたのだ」
「射たのは、将門ですか。たしかに」
「そうだ。将門は、叔父殺しだぞよ。——宿命だな。こうなるのも」
「どうして、宿命ですか」
「考えてもみるがいい。将門が、まだ、都におるうちに、幾たびか、お許に、密書が行っていたであろうが……あれが、郷里へ無事に帰って来ては、かならず後に禍いをなすにちがいないから、何とか、手段をめぐらして、在京中に、将門を殺《あや》めてしまうように……と」
「それは、老父からもいわれていたし、たしか一、二度、あなたのお手紙にもありましたが、都のうちでは、そうやすやすと、彼を殺すような機会などはあるものではありません。……まして、将門は、左大臣家に仕えていたことですし、後には、禁門の滝口にもいて、武力では、めったに、この貞盛の手にもおえる者ではありません」
「いや、なにも、お許が、それを果さなかったことを、今さら愚痴ったり、咎めだてするわけではない。ただ、そうまで、行く末を考えてしていたことが、今日、こういう結果になったことを、宿命とはいったまでだ……」
「この不幸の中で、私も、今更、叔父上と喧嘩したくもありません。どうくやんでも始まらないことだ。それよりは、後々《あとあと》だが」
「さ。その後々が、容易でない。早くも、あちこちの荘園やお家の私田まで、豊田の将門へ、奪われている。たとえば、野爪あたりの百姓も、以来、まったく、常陸源氏には、背をむけて、何につけても、豊田へ足をむけてゆく」
「それは、困った事ですな。手をこまぬいたら……」
「もちろん、両三年を出ないまに、石田の領は、何もなくなってしまうだろう。柱としていた石田が侵されれば、われらの水守や羽鳥も、将門めに、脅かされてくるのは当然。貞盛どの、しっかりしてくれ」
数日の後。——貞盛の名をもって、大宝寺では、大掾国香の葬儀が行われた。もちろん、将門は来ないし、将門に心をよせる者は、みな顔を見せなかった。
この葬儀の参会者の顔ぶれによって、およそ、敵味方の分類がはっきりついた。これは、偶然だが、葬儀のもたらした効果といえるものだった。
貞盛は、考えこんだ。なぜというのに、あんな愚劣なと、都では思っていた将門に、案外、味方する者の多いことが分ったからである。これでは、うかつに、彼にむかって武力を擬《ぎ》したら手を焼くはずであるとも思った。郷里にいる間に、もういちど、彼の実力とその人間を——そしてまた五月四日のいきさつを、充分、調べてみる必要があると思った。