一夜のうちに、豊田郡一帯は、無数の焦土を、ここかしこに、作っていた。たのみ難い人の世の平和を語るように、余燼のけむりが、次の日も、もうもうと、水郷いちめんを晦《くら》くしていた。
「何も知らない百姓の女わらべや老人《としより》にまで……。ああ、気のどく。これは、おれのせいだ」
将門は、馬で、あちこち、見舞ってあるいた。その惨状を、眼で見、耳に聞いた。
去年。——敵地へ駈け入ったとき、将門が敵へ与えた通りな惨害が、今日は、彼の領下に、加えられていた。
幸いに、豊田の本拠は、無事だった。館にも、柵前にも、また彼の妻子にも、何事もなかった。
けれど、将門は、辛かった。正しく、自分の精神と肉体に、痛打をうけた感じである。
救い粥《がゆ》の状況を一巡見て、館へ帰ると、彼は、いつになく、疲労の色をたたえていた。今暁、一睡はしているのに、なぜかひどく気力がふるわない。
「どうしたのです、兄者人」
将頼もいい、将平、将文も、彼を囲んでいった。
「いや、どうもせん。ただ少しくたびれたよ、おれは」
「いつにないお顔色ですが」
「そうか……」と、将門は、自分の頬をなでた。知覚がにぶく、何だか、顔の幅が倍もあるような気がした。
「寝不足とみえる。案じることはない。きのうは、まずい戦をやってしまったが……なあに、こっちに、油断がなければ、あんなばかな負け方はせぬ」
「むしろ、私たちは、よかったと思います。——余りにも兄者人は、自分の気もちで、他を量りすぎる。これからは、私たちのことばも、きっと、きいて下さるでしょうから」
「……悪かった」
素直である。将門の、こんな素直も、弟たちにすれば、かえって、どうしたことかと、心ぼそい。
「いえ、決して、兄者人を、私たちが揃って、お責めするわけではありません。——ただ、いかに危険な相手共か、それを、もう一ぺん胆に知っておいていただかないと」
「わかった。もう、不覚はとらん。もういちど、おれの本当の力を、思い知らしておく必要がある。三郎、四郎」
「はい」
「近いうちに、見ておれよ。そうだ、充分に、郎党や馬を休ませておいてくれ」
それから、十日ほど後である。
将門は、一情報をつかむと、すぐ主なる家人や弟たちを寄せて、万全な密議をこらし、夜半、豊田の兵一千余を引率して、子飼の江上を渡った。
ここは、四方の大河、江頭をあわせても、どこより水を渡る最短距離であった。
なおまだ暁天も暗いうちに、彼は、敵領に近い大宝郷《だいほうごう》堀越の渡し附近に埋伏《まいふく》した。
葦も芒も秋草も伸びるだけ伸びきっている季節である。伏兵には時を得ていた。そして、蛭《ひる》に喰われたりヤブ蚊にさされたりの沈黙をじっと怺《こら》えて、やがての戦機を待っていた。
「……見えぬぞ、まだ」
「はて、来ないなあ」
この日、羽鳥の良兼が、先日の奇襲に味をしめて、ふたたび、豊田へ襲せてくるという密報が、前日に探られていたのである。
——と、果たして。
陽も高くなった頃、筑波、常陸、水守の兵をあわせた大軍が、えんえんと、長蛇の影を見せてきた。
渡しへ、かかった。
筏にのり、馬を、浅瀬に曳き、列も陣も、みだれた時を計って、将門が、
「射ろ」
と、急に命令を下した。
敵は、狼狽した。江の水は、赤くなった。
しかし、良兼の部下は、先頃にもまさる大兵であり、あらかじめ、途中の伏兵には、要心もしていたらしく、たちまち、勢いを、もり返して、
「ござんなれ。きょうこそ、将門を生擒《いけど》りにしろ」
と、反撃してきた。
どうしたのか、この日、将門は、ややもすると、逃げ廻っていた。
「はて。いぶかしい」
「おかしいぞ、兄者人の容子《ようす》は」
彼の弟たちも、それが、一抹の憂いとなって、充分に、戦えなかった。
——理由は、後になって、分ったことだが、将門は、すでにこの夏頃から、この水郷地方に多い風土病ともいえる“脚気《かつけ》”にかかっていたのである。
この前の、子飼の渡しの合戦でも、何となく、全体がだるく、そして、頭も冴えない心地がしていたのだ。
——殊に、その日は、暗いうちから、沼地の葦や水溜りの多い湿地に半日も浸《つか》っていたので、急激に容態が悪くなっていた。いかに、阿修羅になろうと思っても、気も猛《たけ》くなれないし、第一、操馬が自由にならなかった。
このため、積極的に、ここまで敵を迎え討ちに出陣しながら、彼の軍は、ふたたび、みじめな退却を、余儀なくされた。
「将門の勇猛も、底が見えた。もう彼の腰はくだけているぞ」
良兼は、そう観た。
「きょうこそは、さいごのところまで、豊田を攻めろ。おそらく、夜には、将門の首が、わしの前にすえられるだろう」
そういって、堂々と、鼓手《こしゆ》をして、鼓を鳴らさせ、あたかも、もう占領軍の入城のように、豊田へ迫った。
そして、この前のように、行く所の民家屯倉などを焼き立て、ついに将門の本拠にまで迫った。ここは郡の中心地であり、将門館の門前町なので、人家も建て混んでいる。煙の下を、逃げまどう女子供の悲鳴が、たちまち、阿鼻叫喚《あびきようかん》を現出した。
一ノ柵に、火がついた。
二ノ柵門も、館の正門も、はや炎にくるまれ、領下の火ばかりにとどまらず、将門の妻子が住んでいる北ノ殿まで、炎は、余すなく狂い出した。