この年(天慶元年)の頃、京都には、僧の空也《くうや》という者があらわれて、辻に立ち、念仏をとなえ、念仏をすすめ、念仏即浄土の説教をし始めていた。
空也は、諸国を歩いて、貧者を見舞い、病人を扶《たす》け、橋を架し、道をつくろい、また地相を見ることに長じていて、どんな水の不便な所でも、空也が行って、井戸を掘ると、そこから水が湧《わ》いたという。
都の中にも、空也の掘った井戸が幾つもあって、その井を、街の人々は“弥陀《みだ》の井《い》”と、名づけたりした。
とにかく、彼は、庶民の中の庶民の友人であった、師であった。
だから、街の人々は、彼を呼ぶのに、
「市《いち》のお上人《しようにん》」
といって、親しんでいる。
いや、何かこの人が、自分たちの力であるように、空也が夜の辻に立つと、みな彼のまわりに集まった。そして、説教に耳をかたむけ、念仏を唱和し、やがて誰ともなく静かに叩く鉦《かね》の音律にあわせて、群集の輪は、市の上人のまわりを踊るが如く巡りあるいた。
空也念仏——空也踊り——
春の星が、都の空を、妖《あや》しい光に染めている。民衆の中に、こういう事象が起るときは、民衆の中に、何か、不安があるときだった。——空也踊りの輪は、念仏と鉦の音の音律は、それを語っていた。
「きょうも、西の早馬が、太政官の門へはいった」
「いや、きのうもだ」
「伊予の純友一類が、南海ばかりでなく、近頃は、つい淡路や津の海まで、荒し廻っているというぞ」
「いったい、官の追討は、何しているのであろ?」
こういう不安な囁きは、絶えず聞く。
ここ数年、中央政府は、純友一類の海賊征伐には、まったく、手をやいている。
小野維幹、紀淑人などは、いくたび宣旨《せんじ》をいただいて、純友一類の海賊征討に、瀬戸内海を南下して行ったか知れないが、都人はただの一度も、凱旋軍を見たことはない。
「行けば行くほど海のもくずよ」
誰とはなく、敗戦は知れるものである。ついには、兵を徴しても、応じる壮丁《そうてい》もないような有様である。
その最もひどい一例は、天慶元年からいえば、つい二年前の承平六年三月、
南海ノ賊、船、千余艘ヲ以テ、官ノ調貢《テウコウ》ヲ剽掠《ヘウリヤク》シ、為ニ、西海一帯ノ海路マツタク通ゼズ
という太政官日誌の一項を見てもわかる。貢税の物資を載せた官船が、海賊たちに狙われた例は、一度や二度の事ではない。甚だしいばあいは、船ぐるみ、孤島へ運び去られ、裸にされた官人が、幾月も後になって、都へ逃げ帰って来たという嘘のような話すらある。
天下の乱兆は、純友一派の海賊ばかりでなく、山陽北陸地方には、国司や土民の争乱がのべつ聞え、殊に、出羽の俘因(蝦夷の帰化人)が、国司の秋田城を焼打ちしたというような飛報は、いたく堂上の神経をついた。おまけに、洛中名物の放火沙汰や群盗の横行は毎晩の事で、それはもう珍しくも何ともなくなっている。
こういう洛内。こういう上下の不安が満ちていたところへ、右馬允貞盛が——山ヲ家トシ、薪ニ枕シ、艱難漸ク都ニ帰リ着クコトヲ得タリ——という姿で関東から逃げ帰って来たのであるから、
「すわ、何事かある?」
と、遠隔の事情にうとい大臣、参議たちが、彼の上告文なるものを、重視したのもむりではない。
上告文には、坂東一帯の騒擾は、すべてこれ、彼の野望と、中央無視の反意によるものであるとなし——為ニ、荘園ハ枯渇《コカツ》シ、農民ハ焦土ニ泣涕流亡《キフテイルバウ》シ、ソノ暴状ハ鬼畜モヨク為《ナ》ス所ニアラズ——と、誇張した文辞で、将門の反官的行為を、ある事ない事、針小棒大に書き出してある。
「すててはおけない」
太政官は、これを取り上げた。
しかし、先年、将門上京のとき、貞盛との訴訟の対決では、将門の申したてを正しいとして、「彼に罪なし」という判決を下してあるばかりでなく、「将門が父以来の遺産田領はこれを直ちに、将門の手に帰すべし」という宣告を貞盛へ申し渡してある。要するに、そのときの官の裁判は、将門を正当とし、貞盛の訴えを、不当としたのだ。
——それを今また、敗訴の貞盛の上告文を取り上げて、軽々しく、将門を朝廷の罪人視するのは、どういうものであろう。すこしヘンなものではあるまいか。——というような正論も、公卿の一部にいわれていた。
「一応、貞盛を召して、つぶさに、貞盛の口から、坂東の実情を、訊き取ってみるべきであろう」
堂上の意見は、それに一致した。貞盛はその日、衣冠して、朝廷の南庭に畏まった。
殿上には、三卿以下の大官が、列座して、彼の口から、東国の実情を聞き知ろうと、居並んでいた。
その中には、太政大臣忠平(前左大臣)の子息——大納言実頼《さねより》、権中納言師輔《もろすけ》などの姿も見える。
貞盛は、庭上から仰いで、
(お。見えておられるな……)
と心づよさを、ひそかに抱いた。権中納言九条師輔は、弟の繁盛が多年召仕えている主人であるし、また、その兄君の実頼も、自分に好意をもっているお人であることを、常々、繁盛から聞いていた。
「上告文は、あの通りに違いないか。将門にたいし、右馬允は、謀反人《むほんにん》なりと断じてあるが、それに、相違ないのか」
実頼が、質問した。
「ちがいありません」
貞盛は、すずやかに、答えた。
こういう所で、思いのまま智弁をふるうことは、貞盛として、得意中の得意である。まして、実頼が質問に当ってくれるなど、願ってもない事だと思った。