妓たちや不死人が、旅の木賃を重ねて、ちょうど、富士の降灰《こうかい》が雪のように降りしきる秋の武蔵ノ原を行く頃——折ふし将門は、他へ、旅に出ていて、石井ノ柵にはいなかった。
武蔵ノ国の府中へ出向いていたのである。
弟の将頼、将文を留守におき、自身は将平以下、一族郎党を数多《あまた》ひきつれて、深大寺の境内に、宿営していた。
この物々しい行装は、まるで出陣のような兵馬だが、将門としても、それだけの用意をもたなければ、出向かれない危険を感じての事である。——何しろ、旅の目的というのが、戦争の仲裁をすることであったし、しかも武蔵ノ国は、彼にとって、いわば敵地にひとしい土地である。
「この将門の顔で、うまく和解がつくかどうか。まず、相手の武芝《たけしば》に会ってみよう。——話は、その上の事として」
彼は、深大寺まで迎え出て来た武蔵《むさしの》権守《ごんのかみ》の興世王《おきよおう》と介《すけ》ノ経基《つねもと》へ、そういった。
「よろしくお願い申しあげる。——武芝の方さえ、兵をひけば、こちらはもとより、乱を好むのではない。いつでも、彼を国庁にむかえて、共に、庁務に努める寛度はもっているつもりなので」
「よろしい。将門にお委《まか》せあるなら、ひとつ、武芝を、説いてみよう」
「もとより、お出向きを願った以上、何のかのと、条件めいた事は、いい立てぬ」
「では、府中へ帰って、吉左右を、お待ちなさい」
将門は、こう呑みこんで、二人を帰した。
問題は小さくない。
しかし、争いの根は、簡単だ。
「——これは、治《おさ》まる」
将門は、そう見越していた。また——確信をもったので、口ききをひきうけて、敵地とも味方とも分らぬ武蔵へ出向いて来たわけでもある。
この武蔵地方には、先年、彼にとっては、不倶戴天《ふぐたいてん》の仇敵ともいえる右馬允貞盛が、立ち廻っていた形跡がある。
うすうす、彼も、それは偵知しているのだ。
ところが。
その後、武蔵地方を注意していると、貞盛が、協力を求めて、出兵を説いて廻ったにもかかわらず、ここの国庁を中心に——内紛、また内紛をつづけたあげく、近頃では、ついに、毎日の小合戦に、双方、まったく疲れてしまったらしい。
双方というのは。
例の、足立郡司判官代《あだちのぐんじほうがんだい》という肩書のある武蔵武芝と、新任の権守興世王、介ノ経基との対峙《たいじ》である。
この連中のいがみ合いは、さきに、貞盛がこの地方へ来たとき、貞盛の策と、加担に励まされて、興世たちは、竹柴台の武芝の居館を襲撃し、そのとき、一応は、彼らの勝利で、終っていた。
けれど、武芝も、牟邪志乃国造《ムサシノクニノミヤツコ》——という古い家がらの豪族である。その後、ちりぢりになった一族をかりあつめ、多摩の狭山《さやま》に、砦《とりで》をかまえて、朝に夕に、府中の国庁をおびやかし、放火、第五列、内部の切りくずし、領民の煽動、畑荒し、暗殺、流説——などを行い、そしてはわっと兵をあげて奇襲してくるので、以来、国庁では、吏務も廃《すた》れ、税物も上がらず、まったく無政府状態に陥ってしまった。
で。その困憊《こんぱい》のあげくが興世王から、将門へ、
(ひとつ、仲裁の労をとっていただきたい)
と、泣き込む羽目を余儀なくさせたものだった。
将門は、そう聞いたとき、おかしくて堪らなかった。
本来は、貞盛が始末するものだ。
貞盛が、あとの事を保証し、貞盛にケシかけられて、武芝追放をやったような興世王と経基の二人と彼は知りぬいている。
だが。その貞盛は、さきに自分が、信濃の千曲川まで、追い捲くし、ついに、長蛇は逸したが、おそらく、骨身に沁むような恐怖を与えて、都へ追いやってしまった。おそらくはもう二度と、この将門がいる東国へは、足ぶみも出来ないはず——と、彼は、ひそかに、うぬぼれていた。
いわば、貞盛から離れて、木から落ちた猿みたいな興世と経基だ。——そう見たので、その二人が、自分を頼って来たことが、何とも、おかしくもあり、哀れにも見え、
(よし。おれが、話をつけてやる)
と、侠気《おとこぎ》を出して、乗りこんだものである。
要するに、これが将門の性格だった。
彼の甘さであり、彼の人の好さでもある。
もし、将門に、もうすこし、人のわるさがあるならば、この機会に乗じて、武蔵一国を併呑《へいどん》してしまうのは何でもない。
後に、世上でいわれたごとく、彼に、心からな謀叛気と、大きな野望があるならば、こんな絶好な機を、つかまないでどうしよう。得にもならない仲裁役に、危険を冒してまで、のめのめと、敵地にひとしい武蔵へ出て来るなどは、そもそも、よほど人を疑わず、また、頭を下げて頼まれれば、嫌といえない人間のすることで、まことに——いわゆる後世の関東者、江戸ッ子人種の祖先たるに恥じない性格の持主ではあった。