あとの出来事などは、将門は、何も知らない。
もとより彼は、一片の義侠から、乗り出したまでの事だ。
「馬鹿を見たよ。なあ、将平」
「それはもう当りまえです。馬鹿を相手にすれば、きっと馬鹿を見ますよ」
「上には上のあるものだ。……おれもずいぶん馬鹿の方だと思っていたが」
「何しろ、あんな馬鹿仲間は、見たことがありません。将平には、いい見学になりました」
「痛い事をいうなよ。それはこの兄のことだ。おれが十年余りの上洛中なども、今思えば、馬鹿世界の見学さ。何の役にも立っていやしない。……あはははは、そういうと、やはり自分は馬鹿とは思っていないようだな」
馬の背と、馬の背とで、兄弟はこんな気軽い話を途々にしていた。
「そうだ、途のついでに、豊田の普請《ふしん》でも見て行こうか」
豊田は、羽鳥の良兼に、焼打ちされた廃墟の旧邸だ。その後、大工事をさせている。以前にまさる大館《おおやかた》が、もう八分どおり竣工《しゆんこう》しかけていた。門前町も、復興していた。
彼は、それを見て、石井ノ柵へ帰り、将頼に会って、笑いばなしをした上、鎌輪の仮屋敷へはいって、旅装を解いた。
すると、家人や弟の将文が、
「お留守中に、都からお客人が来て、べつな棟で、お帰りを待ちますと、毎日、賑やかに滞留しておられます」
と、告げた。
「なに、賑やかに。……誰と誰だ。いったい」
「数年前にも見えられた八坂の不死人殿と、そして今度は、幾名もの下郎と、なお四人の女性《によしよう》をお連れになって、同勢、十人ほどもございましょうか」
「ふうむ? ……あの不死人がか」
不死人と聞けば、妙に、なつかしくもあり、重くるしい圧迫も感じてくる。——年少、都へ遊学に出た日の第一夜から、八坂の暗闇で知己《ちき》となった悪の友。ニガ手という先入主も抜けないのだ。
「どの壺か」
と、彼は、将文を案内に、その棟へ行ってみた。
なるほど、廊を渡ってゆくまに、もうたいへんな声が聞える。不死人や連れの者のだみ声に交じって、キャッキャッと笑う女たちの嬌声やら何やら、まるで旗亭の一室といったような騒ぎである。
「おう、不死人。来ていたのか」
彼が、そこに現われると、男たちの顔、女たちの眼、一せいに、彼を振り向いて、そしてやや居ずまいを直した。
「やあ、戻ったか。おん主《あるじ》」
と、不死人は、さっそく、杯を洗って、
「まず、ここへ」
と、席をすすめて、一応の辞儀やら、一別以来の旧情をのべてから、さて、にやにやといった。
「ときに、相馬殿(彼も、以前のような呼び捨てをやめて、世間でいうように、そう呼んだ)——そこにいる女性をお見忘れはあるまいの。……おい、何を黙って、はにかんでおるのだ。はるばる連れて来てやったものを」
と、草笛を指さした。
将門は、さっきから彼女の横顔を、まじまじ見ていたところである。眸が合った。女の顔は、ぱっと紅くなった。
「おお、おまえは、江口の……」
「お覚えでございましたでしょうか。江口の草笛でございまする」
「ああ。これは意外な」
将門は、心から、そういって十余年の過ぎた日を、思わず詠歎した。
「——女はいつまで、変らないものだなあ。わが身の方は、こんなにも変ったが」
「いいえ。あなた様も、すこしもお変りになりませぬ。ほんとに、そうお変りになっていらっしゃいません」
「いや。そうでもあるまい。まだ都では、あの頃、右大臣家の小舎人か、滝口の小次郎であったはずだ。以来、坂東の野に帰って、悲雨惨風《ひうざんぷう》に打ち叩かれた将門。顔も心も、むかしのようではない」
「お心が変られたと仰っしゃるなら、それは私には分りませんが……」
草笛は、ふと、拗《す》ねたような、そして、淋しさに泣きたいような顔になった。それを、やにわに、酒にかくそうとするもののように、杯をとりかけると、不死人が、
「おいおい。さっそくの痴話口説《ちわくぜつ》はよしてくれ。杯を、相馬殿にお差しせぬのか。——将門、いや相馬殿。なつかしいなあ、江口の里は」
「忘れてしまった。もう……まったく遠い夢のようでしかない」
「そうであろう。じつは……さもこそ、淋しくお在《わ》さめと、純友殿から、その草笛と、ほか三人の遊君たちも、其許への、貢《みつぎ》としてお贈りになったものだ。どうか受けとっていただきたい」
「貢物とは、おかしいではないか。贈り物なら、お受けしてもよいが」
「いや。純友どのは、あなたを、いつも帝系の御子《みこ》として、尊敬しておられる。そこでついそんな言葉をつかわれたのであろうが、贈り物には、ちがいないのだ。どうです、坂東には、野の花々は、繚乱《りようらん》でしょうが、こんな都の花を、お内にあって眺めるのも、まんざら悪くはありますまいが」
「いや、ありがたい。そういう贈り物なら、折ふし、将門の身のまわりは、冬荒《ふゆざ》れのように淋しいところ。さっそく、その杯をまわしてもらおう。……草笛、注いでくれい」
と、将門は、彼女の方へ手をのばした。草笛は、年ばえ過ぎた花嫁のように、恥じらいながら、銚子の柄を把った。
——その姿態《し な》に、その横顔に、将門はふと、少年の遠い遠い日、厩舎《うまや》藁《わら》の蒸れるなかで、童貞の肌に初めて知った館の奴隷の女奴——蝦夷萩のおもかげを、心に思い出していた。