由来、武蔵野人種は政治的性格にはまったく欠けている。先天的に、狩猟の武勇を得意とする野性の民で、これの撫民《ぶみん》は容易ではない。
その後も——
武蔵一国は、混乱のまま治まりがつかなかった。
せっかく将門が仲裁に出向いて、武芝《たけしば》、興世王《おきよおう》、経基《つねもと》の三者のあいだに、和睦ができ、手打ち式にまでなりながら、その日の平和を誓う酒もりから、また大喧嘩をひき起し、もとの泥合戦へ返ってしまう始末である。将門さえも、見限りをつけて、
「いや、あきれたものだ。もう再びあんな馬鹿共の馬鹿合戦に立ち入って、仲裁の口きき役などは真ッ平だ。まあ、やるところまでやっていたら、眼がさめるだろう」
と、以来、どっちから仲介を頼みに来ても、笑って相手にしない程だった。
しかし、この武蔵の内乱も、将門の運命にとっては、そう笑って見ていられる対岸の火災ではなかったのだ。
任地の官職を擲《なげう》って、京都へ逃げ帰ってしまった源経基は、
「まったく、将門の謀《たくら》みに依るものです」
と、中央の官辺へ、吹聴して廻った。
「——和睦の仲裁に立つと称して、じつはいよいよ喧嘩を大きくさせ、その虚に乗じて、国庁を荒らし、ひいては武蔵を自己の勢力下に抱き込もうとしたものにちがいありません」
と、太政官《だいじようかん》の答申にも、口を極めて、述べたてていた。
何しろ、さきには、貞盛の訴えがあったところだし、将門の人気は非常にわるい。将門を悪しざまにいいさえすれば、実相を深くも見ないで、
「……さもありなん。さもそうず」
と、肯定してしまうような公卿一般の先入主であった。
放置してはおけないという朝議である。
「武蔵へ下《くだ》す国司には、誰ぞ、よほど不屈な人物をさし向けねばなるまい」
として、新たに選ばれたのが、百済《くだらの》貞連《さだつら》であった。
この貞連が、武蔵の新任知事として、東国へ下向してから数ヵ月の後に、将門の旧主たる太政大臣家——藤原忠平は、余りに紛々たる将門の悪評と、そして朝議がすでに彼を謀叛人視している事からも、
「すておけまい」
とあって、忠平は特に、中宮《ちゆうぐうの》蔵人《くろうど》多治真人《たじのまびと》に、教書をさずけて、
「なお一応。事の実否をあきらに糺《ただ》してまいれ」
と、東国へ立たせた。
真人が、糺問使《きゆうもんし》として、東国へ向うと聞いたとき、忠平の子息の九条師輔や大納言実頼たちは、口をそろえて、
「おそらくは、真人が下っても、何の益にもなりますまい。さきには、貞盛の訴えもある事です。彼が、尊属を殺して、所領をひろげた結果、勢いに誇って、ついに今日では、朝廷も憚らず、官に抗しても、なおその暴欲をほしいままに伸ばそうとしている事は、余りにも明白です。——今さら、御教書《みぎようしよ》などを下して、調査をお命じになるなどの事は、かえって、将門をして、増長させるだけのものでしょう」
と、反対した。
けれど、忠平の心の奥には、まだ小次郎時代の将門が残っていた。——あの小次郎がと疑われるのである。
「いや、念のためよ。何事にも、念を入れ過ぎて悪いということはない」
忠平は顔を振って、初めの考えを変えようとはしなかった。彼も今では、小次郎が仕えていた頃の色好みな風流大臣《おとど》ではない。年も七十に近く、氏《うじ》の長者として、また朝廷の元老として、何事にまれ、この危うい世を、どうしたら穏やかに治め得るだろうかと、さすがは、憂慮にたえない立場にあった。