坂東、大乱に陥つ。
という公報が、都へとどいたのは、暮もおしつまった十二月末である。
東八ヵ国の官衙から、蜂の子のように叩き出された国司や府生たちが、やがて、命からがら、都へ逃げ上って来ては、
「いやもう、大変というも、おろかな程だ。まさかと思っていたが、やはり将門の謀叛気は噂だけではなく、ほんものだった」
といい、
「あのぶんでは、相模、遠江と、順に国庁を焼き立てて、都までを、騒乱に捲きこむかもしれぬ」
などと、恐怖的なことばを、火の粉のように、ばら撒いた。
武蔵の百済貞連を始め、諸国の介や掾も、前後して、太政官へ駈けこみ、
「いまさら、将門謀叛などと、上訴に及ぶも、事古《ことふる》しです。事態は、そんなどころか、もう天下の大乱で、駿河以東には、朝廷も中央の命もあったものではありません」
と、極力、言を大にした。そして吏事《りじ》根性の常でもあるが、自己の無能を、天災時のような不可抗力のものに、見せようとした。
それだけでも、洛中は、不安に明け、不安に暮れた。上下、恟々《きようきよう》と暮も正月もない有様だった。すると時も時、こんどは、南海の剽賊藤原純友を討伐に向っていた官軍が、大敗戦をまねき、備後介《びんごのすけ》藤原子高が、海賊軍の捕虜になった——という不吉な報がはいって、堂上輩《どうじようばら》を、仰天させた。
「南海の賊と、坂東の大乱とは、別なものではない」
「純友と将門とは、かねてから気脈を通じ、軍を同時に挙げたものだ」
公卿百官の驚きようと、そして恐怖の声は、もう頂点という有様だった。
勅使は、奈良へゆき、叡山《えいざん》にむかい、また洛中洛外の山々寺々に命じて「逆賊調伏《ぎやくぞくちようぶく》」の祈祷を修せしめた。
祈祷。——じつに、祈祷以外の処置も政策もない政府だった。
時に、太政大臣の藤原忠平も、もう齢《よわい》六十をこえ、政務は多く子息の大納言実頼と、権中納言師輔《もろすけ》にまかせきっている。しかし、将門問題については、この父子の意見が、一致していなかった。
「わしは、将門という人間を知っておる。愚直だが、佞奸《ねいかん》ではない。よく、人に訴えられてばかりいるが、何かのまちがいであろう。いわんや、大それた謀叛などを企む男とは思えぬ」
これが、忠平の観ている将門であり、従来からの、彼の情勢判断の基調となっていたのである。
ところが、子息の実頼や師輔の考えは、まったく違う。
この二人は、貞盛の報告や、貞盛の訴えに、まったく同調していた。
「父君は、あまい。どこやら、もうろくしていらっしゃる」
「いや、むかし、わが家の青侍に置いたことのある将門なので……」
「うむ。人情、やはり肩を持ってやりたいのであろ」
「それもあるし、とかく、時勢にも、どこか、おうとくなられてもいるし」
そんなふうに、忠平の判断は、将門の肩持ちにすぎないもの、そして、老父が一片の私情であると、頭から決めてかかって、従来、幾たびかの対将門方針を選ぶばあいにも、「まあ、まあ」と、片づけておくだけで、これを朝議のうえでは、採らなかった。
で。——これまでの間、糺問使を派すにも、処断を下すにも、つねに、煮えきらないような中央の東国対策の裏面には、執政父子のあいだの、こういうもつれや、意見のくいちがいも、多々、原因をなしていたものにちがいない。
ところが、こんどは、捨ておけない。坂東の将門は、皇位を僭称し、みずから、いる所を、王城に擬《ぎ》し、左右の大臣を任命したり、一夜拵《ごしら》えの文官武官に、勝手な除目を与えて、その勢威は、ほんとうの天子のようだという噂が、都じゅうに拡がった。
これには、忠平も、暗然として「……ば、ばかな奴だ」と洩らしたのみで、もう将門については、一言も触れる容子はない。
「純友の平定には、さらに、援兵を急派し、摂津から兵船百艘をさし向けました。……が、将門には。……やはり討伐の軍には、誰かを以て、征夷大将軍に任命しなければなりますまいな」
兄弟が、老父の意見を求めると、忠平は、そっけなくいった。
「なに、軍の編成。そのような手続きは、分りきった事であろうが」
「しかし、征《ゆ》き人《て》がありませぬ。誰も、それを望んでいないらしいので」
「朝命でもか」
「いえ、まだ、綸旨《りんし》が下ったわけではありません。今は、人選に、迷っておるので」
「何を、ぐずぐずしておるか。廟議《びようぎ》に諮《はか》れ。廟議に」
やがて、藤原忠文《ただぶみ》に、白羽の矢が立った。
すでに、一月に入っていたのである。忠文へたいし、征夷大将軍として、賊を平定せよとの勅命が降った。天皇おんみずから、南殿に出御され、忠文に、節刀を賜い、任命式が行われた。侍立の百官は、
「首尾よく、凱旋あれよ」
と、万歳を唱えて、それを歓送した。
副将には、藤原国幹《くにもと》、平清基など、東国の守や介が、任命され、そのほか筑波の羽鳥の良兼、良正の子や甥など——あの平公連《たいらのきみつら》、公雅といったような顔も、軍のうちに、見えていた。