征討軍が、都を発向したのは、一月二十七日であり、二月上旬には、もう大行軍の列が、東海の駅路を、東へ東へ、蜿々《えんえん》と、急いでいたはずである。
ところが、大将軍忠文を初め、副将国幹にも、全軍の将士にも、将門にたいして、どれ程な自信と意気があったか、甚だ疑わしい。
——というのは、都を立つ前から、かねて貞盛がいいさとしたり、また、坂東の国司たちが、逃げのぼって来ては、吹聴しちらした“将門禍《まさかどか》”の誇張が、余りに効きすぎていた結果、将門旋風の波長は、今や、極端な“将門恐怖”をひき起し、将兵たちは、家を立つにも、駅路《うまやじ》の軍旅のあいだも、将門将門と、口にするたび、悪魔に憑《つ》かれたような怯《おび》えを募らせていた。
いや、これはひとり、彼等の臆病風ばかりではない。西海には、純友、坂東には、将門が、暴れ出したと聞えてから、北越、信州地方にも、頻々と、騒乱の噂が立ち、現に、忠文以下の征討軍が行く道にさえ、その無政府状態が見られた。
駿河の国府は、炎々と、焼けていた。
「もう、将門の兵が、こんな方にまで、進出している? ——」と、一時は、大動揺をきたしたものだが、物見を出して、調べてみると、それは将門とはまったく無関係な富士の人穴辺に蟠踞《ばんきよ》している賊が、官衙や駅路の混乱につけ入って、働き出し、
「この分なら、俺たちにも、一国や二国は伐り取れるぞ」
と、急拵えの名分を唱えて、地方の叛兵と化したものであることが分った。
同国の袖ケ崎の関や国分寺も、襲われている。
旅行者は絶え、駅路の長《おさ》や役人も、みな逃げ去ったか、姿も影も見せない。——こんなわけなので、征夷大将軍忠文自身が、足柄《あしがら》ノ関へかかるのさえ、容易でなかった。
後に、彼らの軍が、いったい何をしていたのかと、大いに、世論から責められたのは、こんな理由からである。
こういう状勢は、けだし、東海道だけではなかったろう。文字どおりな「天下大乱」を、天下の人心が、自ら醸《かも》し、自ら求めていた。夜も昼も、いたるところに、暴徒騒ぎと、掠奪《りやくだつ》、焼打ちが、行われ、
「どうなるのか?」
と、善良な民をして、ただ右往左往、働く土地も、住む家も、食も失わせるような、悲しむべき日がつづいた。
「時は、来ました。これを救う者は、あなた以外にはありません。かねてのお約束を、今こそ、眼に見せてください」
下野国、田沼の郷《さと》、田原の館《たち》では、右馬允貞盛が、年の暮から正月にかけて、さいごの決断をうながしに来ていた。
秀郷《ひでさと》は、なお、容易に、「うん」とは、いわなかった。老獪な彼である。完全な勝算の立つまで、腰をあげるはずがない。
——また、出兵するとしても、朝廷から任命されたわけではないから、彼としては、大きな思惑なのだ。火中の栗を拾うまいとするならば、恬然《てんぜん》と、傍観してもいられる位置にあったのである。
その藤太秀郷が、どう思ったか、
「貞盛どの、常陸へ帰れ。そして常陸の維茂、為憲の父子と語らい、残兵を狩りあつめて、わしの出兵を待ち給え」
と、詳細なる策をさずけた。
貞盛は、そのとき、よろこびの余り、泣いて、老獪の姿を拝したという。
そして、貞盛は、押領使秀郷が、檄《げき》を発して、その一族と、下野一円にわたる兵力を、田沼へ召集するのを見届けてから、
「よし、この味方を、得るからには」
と、常陸へ、舞いもどった。——けれど、さきに、将門のために国庁を焼かれた藤原維茂、為憲などは、どこへ逃げ隠れたか、捕われたか、その兵も、全く四散し尽して、消息すらわからない。その間を、東奔西走して、とにかく、短時日のあいだに、常陸勢の再編成を遂げ、下野勢の新手を加えて、将門へ当ろうと計っていた貞盛の根気のよさと苦心の程も、また、生やさしい軽薄才子のよくなしうる業ではない。陰性な理智と、舌さきで立ち廻って来た彼も、今や一生を賭けた、底力をここにふるい出している姿が見える。