「——其方の一隊は、われらの本軍と別れて、ここより数町先の上流、十二ケ瀬を渡って、この千曲の北岸、小森附近に陣をとれ」
「はいっ」
「そして、この広い闇の野と、深い霧の河原とを、悉《ことごと》く敵の影とも思って、注意を怠るな、うろつく物見と見たら一人も討ち洩らすな」
「承知いたしました」
「甲軍の主力は、おそらく広瀬の下流を渡り、八幡原へうごき出たものと思わるる。——彼の左翼、すなわち其方の陣する所から北東の平野一面こそ、もっとも敵に接近する地域となろう。彼の動静に耳すましながら、変化あらば、その都度《つど》謙信のあとより追馳《おいぱせ》に伝令を発せい」
「はっ。お旨のうち、よく分りました」
甘糟近江守は、馬上の謙信へ礼をして去った。——お旨のうち。それは謙信の希望する布陣の展開を意味する。——それを謙信が成し終るまでの半刻《はんとき》の機微なあいだを、いわば監視隊として甲軍に備えていよとの命令なのだった。
約一千の甘糟隊《あまかすたい》は、千曲の南岸を駆けて、十二ケ瀬へ急いだ。
下流の雨宮の渡しからそれを凝視していると、忽ち小森の岸へ向って、渡河してゆく甘糟隊の影が、白い飛沫と、夜霧に煙って、人か水か、水か霧か、ただ幻《まぼろし》の動くとしか見えなかった。
「——よし!」
謙信の駒も、脚を洗《きよ》めて、川波をざぶざぶ渡っていた。
川水の涸渇《こかつ》しているときは、河原の水は大きな一筋にしかなっていないが、水源地の山岳に雨が降り嵩《かさ》むと、忽ち、ここの広い盆地は、あたかも人間の動脈と静脈のように無数の水脈を描き出す。時しも秋、四方の水声はもっとも烈しい季節だった。