来ることも迅《はや》かったが、去ることも迅かった。
それにしても、謙信が、なぜそう引揚げを急いだかというに、彼の旗本と、敵の旗本とが、槍ぶすまを並べ合った、猛烈な死闘を現出したせつな、武田の方の原大隅が大声で、
「すわやお味方の勝機は今この時と覚えまするぞ、あれあれ、妻女山のほうより夜来の別動隊、高坂どの、馬場どの、甘利どの、小山田どのなどの諸部隊、迅雲《はやぐも》の如くこれへ駆けて来まするわ!」
と、何度も呶鳴っていたからであった。
謙信が、今朝から有無の勝敗を決せんといそいでいたのも、また心中常に気にかけていたのも、実にその別動武田軍十隊の移動にあった。
それに、敵の首将信玄に対しては、なお遺憾な一太刀を残したにせよ、彼の中軍は蹂躪《じゆうりん》し尽したといえるので、年来鬱積《うつせき》していた宿念の一端を放つとともに、
「ここは」
と、迅くも兵機の「転」を考えて、さっと退き脚きれいに帰ってしまったものである。
謙信が引揚げたので、もちろん旗本の市川主膳、千坂内膳、和田兵部、芋川平太夫などもみな、跡を慕って味方のほうへ駆け出した。
駆け出しながら、芋川平太夫と鬼小島弥太郎が、
「武田大膳太夫晴信の御首、芋川平太夫、討ったりっ」
「信玄の御首、上杉の士、鬼小島弥太郎、芋川平太夫、力をあわせて討ち取る。武田方の輩、御首の通る道を邪魔するなっ」
声かぎりいって通った。
もちろん虚言《きよげん》である。
けれどさきに原大隅が——味方の妻女山別動隊がすぐそこまで来た——と叫んだのも突嗟《とつさ》の気転にすぎなかった。こういう言葉のやりとりも時にとっては五体で働く以上に戦闘力をあらわすのである。
槍闘、騎闘、肉闘、白刃戦、敵味方混み合って滅茶滅茶に血しおを浴び肉を掴《つか》みあう時でも、戦いは何も黙ってするものと極《きま》ってはいない。いやむしろ口々に敵も味方も何事か吠《ほ》えあい叫びあい、あらゆる雑言や喚《わめ》き声を発している。けれどそれは殆ど何を吠えているのか意味をなさないものが多い。ある武者は、念仏を唱えながら戦うのが癖になっているものもある。——念彼観音力《ねんぴかんのんりき》、刀刃断々壊《とうじんだんだんね》.——などという声は乱軍中にはまま聞こえるものであるし、わが先祖のうちで心に銘じている名を呪文《じゆもん》のように連呼する若武者もあり、そうかと思うと、薪でも割るときの懸声《かけごえ》みたいに「ワッショッ」と喚いたり「ヤアッ、ホイッ、ヤアッ、ホイッ」と大船の櫓《ろ》でも漕ぎ出すように斬りこんで来る猪《いのしし》武者もある。
何しても、意識無意識のべつなく、ありとあらゆる声を放つ。そのあいだに立ち交じって、敵の気を移らせ、味方の士気を奮い立たすような正しい言葉を——機微《きび》適切な突嗟《とつさ》に——いえるような侍ならば、それはよほど千軍万馬往来の士か、胆略《たんりやく》ふたつながら併せ持っている相当な人物だということができよう。
それはともかくこの日はまた、午過ぎから烈風が吹き出していたので、敵味方とも人馬の影は、濛々迷々《もうもうめいめい》と砂塵に煙り、夜かと思えば、日輪が空にあったと、後にそのときの思い出を人々も語っているほど、ひどい砂煙がこめていた。
軍馬の蹄《ひづめ》が、滅茶滅茶に土を掘り返し、その土をまた兵が蹶立《けた》てるからである。
で、なおさら混乱を加え、それへさまざまな流言が飛び交うので、武田方の内にも、上杉勢の方にも、この前後にだいぶ同士討すらあった。
わけても、
「信玄公討たれたもう」
という流言は、ほんの一時にせよ、魔符《まふ》のように、武田陣のあいだに広まり、みるみるうち落莫《らくばく》たる気落ちの色が全軍を蔽《おお》った。
ようやく、人心地ついて、信玄の床几を、元に直した信玄の本陣に、そのことが知れたので、一大事とばかり、内藤修理が諸方の味方へ馬を駆け廻しながら触れてあるいた。
「お館は御機嫌に御座なさるるぞ。なんのおつつがもなく御指揮に当っておられる。——敵の虚言に乗せられて、味方の戦意を攪《か》き紊《みだ》すが如き者あれば、味方といえ斬って捨てい」
全陣の不安な動揺は、この触れに依ってようやくしずまったものの、ひとたび中軍のまっただ中を、謙信の馬蹄に蹂躪《じゆうりん》された武田方の中枢部は、その愕きと陣形の紊《みだ》れとを、容易に回復することができなかった。
しかしこの隠忍自重は、やはり武田信玄でなければできない怺《こら》えであった。終始、受け身の苦戦を敢てしていた甲軍のうえに、程なく吉報があった。
「見えましたっ。十隊のお味方勢が、彼方、千曲川の下流《し も》からも、上流《か み》からも」
八幡の森の梢に、物見に登っていた者たちは、こう大声で下に知らせ、下にいた部将はすぐ、信玄の幕営へ向って、同じ声をもって告げていた。