「弥太郎ッ、弥太郎」
「はっ」
「旗をここの辺に立てい」
「かしこまりました」
謙信は駒をすてて、野に立っていた。遥か、味方のうしろである。
鬼小島弥太郎が、毘《ひ》の字《じ》の旗と、日の旗の二旒《りゆう》を高々掲げていると、謙信はまた螺手《らしゆ》の宇野左馬介に命じて、
「貝を吹け」
と、いいつけた。
どういう合図の貝を吹けともいわない。けれど螺手左馬介にはわかっていた。なぜならばたった今、主君の左右から旗本の大国平馬や和田喜兵衛や市川主膳など五、六人が、各方面の味方に向って、
「すぐ退《ひ》きとれ」
という君命を伝令すべく八方へ駆け出している。
「戦も、これまでよ」
謙信は、まだ汗ばみの冷えない面《おもて》を、風にふかせながら、大きくつぶやいた。
「柿崎和泉どの、その他、遠く広瀬のあたりまで、深入りしたお味方が案じられます。——ただ貝知らせのみでよいでしょうか」
千坂内膳が、遠くを伸び上がり伸び上がりしながら、心配そうな眼をしていった。
「されば……」と、謙信もそれを考えているらしい。千曲を渉《わた》って、甲軍の主力と、連絡した新手の敵軍に、そこの味方は、退路を遮断されたかたちになったからである。
「いや、大丈夫だろう。和泉守のことだ、横ざまに敵の新手勢を突いて通って来るにちがいない。されば、なお小森には甘糟があり、こなたにある直江大和、安田、荒川などの隊も、ひとつにかたまって引揚げてまいろう」
果たして、彼のことばのとおり、味方は徐々に、陣を返して来た。
とはいえ。
蔽《おお》うべくもない形勢の逆転だ。ここまでは明らかに、
「我れ勝てり」
と、謙信も信じていたが、一万二千の新手が彼に加わった今となっては、味方の鉾《ほこ》を収《おさ》めるしかなく、彼は反対に、朝からの屈伏を一転して、
——思い知ったか。
とばかり存分な攻撃をとり、図に乗せて、こんどは徹底的に、猛追して来るであろう。
いや、悪くすれば、この一刻に、味方は全滅をこうむるかも知れない。ひとたび勝敗の地を更《か》えて逆転した陣容というものは、それほど危険な凶相《きようそう》を呈していた。しかし謙信の面にはなお余裕《よゆう》が見えた。彼は、自分の旗をのぞんで四方から引揚げて来る味方をながめ廻しながら、その心のうちではこんなことを考えていた。
「勝った、正しく勝った。……が、この勝利を、いかにせば勝ち獲《と》れようか、勝ちとおせようか」
彼としての戦はこれまでと観たものの、武田軍としての戦いは、これからだとしていよう。日食のような空を仰げば、陽はまさに申《さる》の刻《こく》(午後四時)頃かと思われる。