謙信はふたたび馬腹に鞭を加えて奔《はし》っていた。
こよいの霧はすべて血か。名月の面にも墨を吹いたような凄気《せいき》が漂《ただよ》っている。
「左馬介。ここはどこか」
「三牧《みまき》の畠の瀬かと思います」
「さても、遠く退《の》いたのう」
憮然《ぶぜん》として、鞍上《あんじよう》から月を仰いだ。そしてしきりと、謙信は、片目をしばたたいた。額から頬へとかけて浴びている血しおが睫毛《まつげ》に乾きかけて眼を塞いでしまうらしかった。
「そち一名か。続いて来たものは」
「左様に覚えます」
左馬介も、暗然とした。——が、謙信は何かおかしくなったように突然肩をゆすぶって笑った。
「川を渉れば、高梨山《たかなしやま》のふもと。中野筋へ出るの。さらば渉ろう。左馬介、瀬を見よ」
「はいっ」
この辺は、さして深いとも思われない。左馬介は、静々、口輪を曳いて馬を川へ導いた。
水は氷のように冷たい。
そして、白い波が、鞍を洗ってゆく。
謙信は、つぶやいた。詩を吟じるように。
「死中、生アリ。生中、生ナシ。——嗚呼《ああ》、珍重《ちんちよう》珍重。秋水冷やかなるを覚ゆ。謙信、なお死なずとみゆる」
死中、生アリ
生中、生ナシ
この語は何かにつけて謙信のいう日常語だった。これについては、彼の家臣はこういう一話を聞いている。
まだ謙信が二十四、五歳のころ、春日山の城下で、ひとりの老僧に会った。
(和尚、どこへゆく)
謙信が馬上から訊ねた。僧は林泉寺《りんせんじ》の宗謙《そうけん》であったが、振り仰いで、
(城主は、どちらへ)
と、反問した。
(されば、戦場へ打立つ門出《かどで》)
と、謙信がいうと、
(あら、心もとなや)
和尚は一拝したのみで、沿道の群集の中へ立ち去りかけた。
謙信は、急に馬を降りて、近侍の本庄清七郎を呼びたてた。
(いまの和尚を追いかけてゆき、謙信に代って驕慢《きようまん》の罪を詫《わ》びてまいれ。そして、一言《いちごん》、謙信のために教えを垂れよと申せ)
(お詫びをして来るのですか)
出陣のやさきである、清七郎は忌々《いまいま》しく思ったが、宗謙のすがたを追って、その旨を伝えた。宗謙は、
(恐縮な)
と、戻って来て、
(教えなど、何も持たぬ。野衲《やのう》に答え得ることなら、何なりと答えよう)
と、衣の袖を交手《こうしゆ》して佇《たたず》んだ。
謙信は、馬を下ったまま、慇懃《いんぎん》に師礼を執《と》ってたずねた。
(兵を進めるには、神速を規矩《きく》となす、とか申します。——法をお弘《ひろ》めになるには、何を以て規矩としますか)
(兵を進めるには、死を先とする。法を弘むにも、死を先にす。ただ今日の在るすがたみな、生を知って死を知らぬのみ。——何でもないなあ、後と先とのとりちがえだけじゃ)
(もう一問、仰ぎます)
(む、む)
(弱きを見て退き、強きに向って進む。——逆ですか。順ですか)
(死を恐れざるものは安く、生を楽しむものは危うし。強弱進退、死生の迷悟《めいご》、みなこの中の事のみ。お館《やかた》には如何に)
一転、反問を呈されて、謙信はしばらく唇をつぐんでいたが、やがてこう答えた。
(死中、生あり。生中、生なし)
すると宗謙《そうけん》和尚はからからと笑って、
(よし、よし。……では、行っておいでなさい)
拝をして、出陣を送った。
後、彼は、凱旋《がいせん》すると、微服《びふく》して、林泉寺に入り、親しく宗謙禅師に参見《さんけん》し、以来、学ぶこと深かったという。
謙信の「謙」は、師の一字を乞うて名乗ったものともいわれている。彼の祐筆が記した若年ごろの日誌を見ても、
御本丸ニ御座成サルモ、常ニ御座之間ニハ一人モ罷リ在ラズ。御次《オツギ》ニノミミナ控ヘラレタリ。禅学遊バサルルニ御障リニヤ
と、ある。
いかに彼が禅に心を容《い》れていたかが窺《うかが》われるし、その導師は林泉寺七世の宗謙だったのである。
とはいえ彼は、ただ禅にのみ傾倒したわけではなく、神、儒、仏のいずれへも心をふかく寄せていた。天地を畏《かしこ》み人間の凡愚を弁《わきま》えていた。仏教にしても、浄土、法華宗、天台、真宗派別なく参究して、その神髄を汲《く》んでみな自己の心の甕《かめ》にたたえていた。