八幡原から丹波島の曠野《こうや》にかけて、夕月は出ても、鯨波《と き》の声は、なお熄《や》まない。
あなた、こなた、鎬《しのぎ》をけずり合う太刀、槍のひかりが、吠え合う軍隊の波間に、さながら無数の魚が跳《は》ねているように燦《きらめ》くのみで、もう武者のいでたち、母衣《ほろ》の色、旗の影、敵味方すらもともすれば分らなかった。
高坂隊、甘利隊、小山田隊、山県隊、馬場隊、真田隊などの新手は、各所に小包囲形を作ってはその中の上杉勢を殲滅《せんめつ》した。上杉勢のみだれは、何といっても、妻女山から転回して来たこの新鋭な甲軍の重圧にあった。
その中にあって、なお一糸みだれない上杉勢一千五百がある。小森附近から動いて徐々に引揚げて来る甘糟近江守の麾下だった。一退一退、貝をふき鳴らして、四散している味方をあつめながら、前後に側面に、当たる敵を討って、堂々、犀川まで引いて来た。
「見事な退き振りかな」
と、敵の真田、高坂なども、見送ってしまった。そして、その二隊は何思ったか、急に踵《きびす》をめぐらして、海津城の方へ引揚げてしまった。
後に、甲軍側の内部で、真田と高坂の二隊の引揚げを、
(何故か)
と非難するものもあったが、信玄は、それに対し、
(いや、味方七分の勝利と見て、無事の間に、引揚げたのはむしろさすがに上手というもので、難ずるには当らない)
という明断《めいだん》を下している。
事実、この時刻にはすでに、信玄の本陣は八幡の社を払って、今暁渡った広瀬を越え、旗本のこらず川中島を去っていたので、主力よりも先に戦場を退いたわけではなかった。
あとに、累々《るいるい》としてなお残されていたのは、その日の傷負《てお》いと戦死者だった。夜露にまみれながらなおその辺に立ち働いている人影は、死骸や負傷者を、各の陣の方へ運んでゆくあと始末の兵だけである。
犀川の岸に、大旗を立てて、なお集まる味方を待っている甘糟近江守は、それから一刻《とき》あまりも、いんいんと貝の音《ね》をふきつづけていた。
その音を慕って、ここかしこから集《つど》う残兵が三千余りとなると、やがて川を北へ渡って、葛尾《くずのお》に宿営した。
この日、朝から七、八時間にわたる激戦に、両軍の戦死は、
甲州方討死 四千六百三十余人
越後方討死 三千四百七十余人
という記録もあり、またべつなものには、甲軍将卒をあわせて三千二百余。上杉方三千百十七を失う、という古記もある。
ただし、その数のいずれにしても、甲軍側は、武田信玄もその子太郎義信も負傷し、一族の典厩《てんきゆう》信繁、ほか諸角豊後守、山本道鬼、小笠原若狭《わかさ》などの名だたる幕将たちも多く戦死し、或いは傷ついているのにひきかえて、上杉方で部将の戦死は一名もなかったのは争えない事実だった。上杉方の死傷は、敵の妻女山転向部隊が、新手として加わった一瞬からのもので、その死傷の殆どが、下士級に多かったのは、潰走《かいそう》乱軍のなかに、武田方の好餌《こうじ》となって捕捉《ほそく》されたり、もうひとつの原因は、丹波島の下流にあたる犀川の深い流域へ、向う見ずに駆けこんで、溺れ流されたり、矢に射られたりしたためであった。