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上杉謙信96

时间: 2018-11-29    进入日语论坛
核心提示:塩 祭 ここ両三年の越後と甲斐とは、依然、宿命的な敵対国として双方、国境を堅持しながらも、その活動は、各べつな方へ向けら
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 塩 祭
 
 
 ここ両三年の越後と甲斐とは、依然、宿命的な敵対国として双方、国境を堅持しながらも、その活動は、各べつな方へ向けられていた。
 元亀三年から翌天正元年にかけての信玄は、東海を目標に、三方原に出て、徳川家康の軍を粉砕し、その本城浜松にまで迫っていた。
 同じ年、謙信は、その八月から越中平定に出征して、天正元年の正月を陣中に迎え、三月富山附近の攻略を終り、四月、春日山の城へ帰って来ると、まもなく、
「甲斐の晴信入道信玄には、この三月中に、卒去《そつきよ》されたそうです」
 という寝耳に水のような報告をうけた。
 謙信はちょうど昼の食事中であったという。早打ちの知らせを、側近の臣から聞いて、
「なに。甲斐の入道は亡くなられたとか。……ああ、多年の好敵手とも、ふたたび相見える日はもうないか」
 箸の手を膝に落して、潸然《さんぜん》と涙の下る瞳をとじていたが、またこう呟いて、諸臣の士気を戒めたということである。
「——敵なき国は亡ぶという。或いはかえってこのために、越後の弓矢も弛《ゆる》むかも知れぬ。とはいえ、信玄ほどな大才を敵として、それに敗られまじ、それに打克《うちか》たんと不断に己れを磨く目標はいまやこの世になくなった。惜しい。寔《まこと》にさびしい」
 家中の武将のうちには、この訃《ふ》を伝え聞いて、
「絶好のときだ。甲府の一門宿将は、おそらく暗夜に燈火を失うたような滅失の底に沈んでいるにちがいない。いま大挙して征けば、彼の全領土を一朝に覆すは易々《いい》たるもの」
 と各寄って、策を謙信に説くものもあった。
 謙信は笑った。
「止めよ、止めよ。天下の蔑《さげす》みを求めるだけだ。死後一朝にして覆るような甲州であったら、その柱であった信玄の死も惜しむには足らん。しかし、三年間はむしろ前にも増して甲府は金城鉄壁であろう。三年先のことは、誰にもわからぬ」
 その後、謙信は、海津の城まで重臣を遣って、篤《あつ》く信玄の死を弔《とむら》わしめた。
 その弔問の使者の帰って来るころ、信玄の死の実相もつぶさに知れて来た。果たせるかな、さすがに彼の死は彼らしく、死後あらゆる方策をその帷幕の者と一門にいいのこして、甲山の旗幟が為に急衰《きゆうすい》を呈すようなことはなかった。
 信玄の病気は、浜松城を包囲して、いよいよ、三河にまで働きかけていた軍旅のうちに起ったものである。その死が急だったし、折も折だったので、いろいろ異説を生じ、諸国から懐疑《かいぎ》されたが、野田城の囲みを解いて、急遽、甲府へ帰って来る途中、いよいよ重態に堕ちて、躑躅ケ崎の甲館へもどったときは、もう遺骸であったというのが真相らしい。
 死に臨んでは、嫡孫信勝、勝頼以下の一族諸将を枕頭に呼んで、
「わが亡きのちは、構えて、みだりに兵をうごかすな。特に隣国の謙信には、信をもって汝らの倚託《きたく》をうけて、裏切るような謙信でない」
 そう遺言して、また、筆を乞うて、
大底他ノ肌骨《キコツ》ニ還ル
紅粉ヲ塗ラズ自ラ風流
 と、最期の一偈《げ》をふるえる手に書き終るとともに息をひきとったという。
 病についてから死ぬまでのあいだに、料紙八百枚に自分の花押《かおう》を書いておいて、死後もなお、信玄死なずと、世に思わせておくように要意を遺しておいたという一事を見ても、いかに彼が、あとあとの備えに万端心をもちいていたかが窺われる。
 英雄の心事は英雄のみが知る。謙信の想像は外れていなかった。また彼のいったとおり、信玄の死後も両三年のあいだは依然、甲斐源氏武田家は四隣に重きをなして何の破綻《はたん》もあらわさなかった。
 だが、ひとたび長篠《ながしの》へ出て、織田、徳川両軍の迎撃《げいげき》に惨敗を喫してからは、衰退頓《とみ》に甲山の旗幟に濃く、さしもの士馬精鋭もその面影を失いつつあった。
 こうした情勢のあいだに、人生の不測は、謙信にもめぐって来た。信玄死後五年目、謙信もまた忽然《こつぜん》と世を去った。両雄ともに世を去ることの急だったのも一奇であり、何となく宿命的なものを想わせる。
 日頃の謙信は実に強壮快健であったが、ただ酒を好んだ。彼が愛用したという馬上杯など、後々まで遺族や家臣の涙をそそった。今に上杉神社に遺《のこ》っている日常の酒盃などもおそろしく大杯である。肴などに好みはなく時としては梅干一つで、斗酒を傾けたとあるからその快飲ぶりは想像に難くない。
むかしよりさだめし
四方にたち返り
治めさかふる
千代のしら雪
 これは彼の旧作だ。若年上洛した折、将軍義輝と一夜雪見を催しながら詠《よ》み出でた一首という。
 雪一色の美に寄せて、そのときもう胸に抱いていた復古の精神を吐いている。また雪よりも純な国体観を洩らしている。
 義輝はこのときまだ弱冠十九歳の将軍だった。果たして彼の理想を汲み得たろうか否かわからない。しかし謙信は、その義輝が非業《ひごう》の死をとげ、次代の義昭将軍となっても、なお情誼《じようぎ》を変えなかった。倒れんとする室町幕府を隠然扶《たす》けるに大いな力をかしていた。
 為に、彼は信長と対立した。信長は彼とはまったく反対な倒壊者《とうかいしや》である。当然な衝突は、外交に軍事に、熾烈《しれつ》に闘わされた。
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