国境をこえて、限りなく塩が入って来たという。
甲州の百姓は生色をとり回《かえ》した。町々はどよめいた。商賈は眼の色を変えて塩を頒《わ》け歩いた。塩を見たものはその白いものを一握り握ってみて、
「ありがたい」
と、涙した。塩を拝んだ。
郷社の神前にも、塩があげられた。煌々《あかあか》と神灯《みあかし》がついた。
——こういう状況をつぶさに聞いては、躑躅《つつじ》ケ崎の館《たち》にあった信玄も、眼を熱うせずにいられなかった。が、彼は、
「……そうか」
とのみで一言もまだそれに就いての是非、感激をも、また批判をも口から吐かないのであった。
「……?」
むしろ彼は初めのほど、苦痛に似た顔つきをあらわしていた。次に懐疑的に見えた。ちょうど、過ぐる永禄四年の大戦に、謙信が捨身の戦法に出て、その不可解なる妻女山の陣をながめたときのように、信玄は心の霧につつまれていた。
そこへ、一書が到着した。
春日山の謙信からである。なお信玄は多分な疑惑をもちながら、その書簡を披《ひら》いた。
書は簡単であった。文意には、
春秋幾星霜、君と我とは、兵馬を以て呼び、兵馬を以て応《こた》う。争う具は、弓箭にして、戦う心は、すなわち所存の相違にあり。我の理想するところ、君の理想にあらず、君の望むところ、我の望みに非ず、すなわち対峙連年、天下の野を借りて、戦陣を布く。
さりと雖《いえど》も、兵家の戦に、何ぞ米塩を用いんや。米塩ひとり君が舐《な》むるにあらず、百姓の生資たるもの、百姓は是、国の大みたから、また攻伐にかかわりなし。駿相二氏の下策、賤陋《せんろう》の心事、たれか憎まざるものやある。
昨今、わが領の商賈《しようこ》を通じ、貴国に塩を給すの意、ほかあるなし。希《ねが》う安んじてこれを取れ。なお君の麾下《きか》をして更に士馬精鋭たらしめよ。戦陣ふたたび相まみえん。
「…………」
信玄は再読三読した。眉の霧は霽《は》れている。しかし疑いもなく彼は謙信にたいして心服を抱いた。彼のうるわしい心事に照らされて信玄の心も美化されていた。何か潔《いさぎよ》い清らかな呼吸を感じるだけだった。勝敗の念も超えていた。
ていねいに書簡をたたんで、押しいただいて傍らの手筥《てばこ》へ納めたが、このときも信玄は、一言の感動も洩らさなかった。いうべきことばもなかったと思われる。