三
「おお! 伊那丸《いなまる》さま。あれをごらんなされませ。すさまじい火の手があがりましたぞ」
源次郎岳《げんじろうだけ》の山道までおちのびてきた忍剣《にんけん》は、はるかな火の海をふりむいて、涙《なみだ》をうかべた。
「国師《こくし》さまも、あの焔《ほのお》の底で、ご最期《さいご》になったのであろうか、忍剣よ、わしは悲しい……」
伊那丸《いなまる》は、遠くへ向かって掌《て》を合わせた。空をやく焔は、かれのひとみに、生涯《しようがい》わすれぬものとなるまでやきついた。すると、不意だった。
いきなり、耳をつんざく呼子《よびこ》の音《ね》が、するどく、頭の上で鳴ったと思うと、かなたの岩かげ、こなたの谷間から、槍《やり》や陣刀《じんとう》をきらめかせて、おどり立ってくる、数十人の伏勢《ふせぜい》があった。それは徳川方《とくがわがた》の手のもので、酒井《さかい》の黒具足組《くろぐそくぐみ》とみえた。忍剣は、すばやく伊那丸を岩かげにかくして、じぶんは、鉄杖《てつじよう》をこわきにしごいて、敵を待った。
「それッ、武田の落人《おちゆうど》にそういない。討《う》てッ」
と呼子をふいた黒具足の部将《ぶしよう》は、ひらりと、岩上からとびおりて号令《ごうれい》した。下からは、槍《やり》をならべた一隊がせまり、そのなかなる、まッ先のひとりは、流星のごとく忍剣の脾腹《ひばら》をねらって、槍《やり》をくりだした。
「おうッ」と力をふりしぼって、忍剣の手からのびた四|尺余寸《しやくよすん》の鉄杖が、パシリーッと、槍の千|段《だん》を二つにおって、天空へまきあげた。
「払《はら》え!」と呼子をふいた部将が、またどなった。
バラバラとみだれる穂《ほ》すすきの槍《やり》ぶすまも、忍剣《にんけん》が、自由自在にふりまわす鉄杖にあたるが最後だった。藁《わら》か棒切《ぼうき》れのように飛ばされて、見るまに、七人十人と、朱《あけ》をちらして岩角《いわかど》からすべり落ちる。ワーッという声のなだれ、かかれ、かかれと、ののしる叫《さけ》び。すさまじい山つなみは、よせつかえしつ、満山を血しぶきに染《そ》める。
一|介《かい》の若僧《わかそう》にすぎない忍剣のこの手なみに、さすがの黒具足組《くろぐそくぐみ》も胆《きも》をひやした。——知る人は知る。忍剣はもと、今川義元《いまがわよしもと》の幕下《ばつか》で、海道一のもののふといわれた、加賀見能登守《かがみのとのかみ》その人の遺子《わすれがたみ》であるのだ。かれの天性の怪力は、父能登守のそれ以上で、幼少から、快川和尚《かいせんおしよう》に胆力《たんりよく》をつちかわれ、さらに天稟《てんぴん》の武勇と血と涙とを、若い五体にみなぎらせている熱血児《ねつけつじ》である。
あの眼のたかい快川和尚が、一|山《ざん》のなかからえりすぐって、武田伊那丸《たけだいなまる》と御旗楯無《みはたたてなし》の宝物《ほうもつ》を托《たく》したのは、よほどの人物と見ぬいたればこそであろう。
新羅三郎《しんらさぶろう》以来二十六|世《せい》をへて、四|隣《りん》に武威《ぶい》をかがやかした武田《たけだ》の領土《りようど》は、いまや、織田《おだ》と徳川《とくがわ》の軍馬に蹂躪《じゆうりん》されて、焦土《しようど》となってしまった。しかも、その武田の血をうけたものは、世の中にこの伊那丸《いなまる》ひとりきりとなったのだ。焦土のあとに、たった一粒《ひとつぶ》のこった胚子《たね》である。
この一粒の胚子に、ふたたび甲斐源氏《かいげんじ》の花が咲くか咲かないか、忍剣の責任は大きい。また、伊那丸の宿命もよういではない。
世は戦国である。残虐《ざんぎやく》をものともしない天下の弓取りたちは、この一粒の胚子をすら、芽《め》をださせまいとして前途に、あらゆる毒手をふるってくるにちがいない。
すでに、その第一の危難は眼前にふってわいた。忍剣《にんけん》は鉄杖《てつじよう》を縦横《じゆうおう》むじんにふりまわして、やっと黒具足組《くろぐそくぐみ》をおいちらしたが、ふと気がつくと、伊那丸《いなまる》をのこしてきた場所から大分はなれてきたので、いそいでもとのところへかけあがってくると、南無三《なむさん》、呼子《よびこ》をふいた部将が抜刀《ばつとう》をさげて、あっちこっちの岩穴《いわあな》をのぞきまわっている。
「おのれッ」と、かれは身をとばして、一|撃《げき》を加えたが敵もひらりと身をかわして、
「坊主《ぼうず》ッ、徳川家《とくがわけ》にくだって伊那丸をわたしてしまえ、さすればよいように取りなしてやる」
と、甘言《かんげん》の餌《え》をにおわせながら、陣刀《じんとう》をふりかぶった。
「けがらわしい」
忍剣は、鉄杖をしごいた。らんらんとかがやく眸《ひとみ》は、相手の精気をすって、一歩、でるが早いか、敵の脳骨《のうこつ》はみじんと見えた。
そのすきに、忍剣のうしろに身ぢかくせまって、片膝《かたひざ》おりに、種子島《たねがしま》の銃口《じゆうこう》をねらいつけた者がある。ブスブスと、その手もとから火縄《ひなわ》がちった——さすがの忍剣も、それには気がつかなかったのである。
かれがふりこんだ鉄杖は、相手の陣刀をはらい落としていた。二どめに、ズーンとそれが横薙《よこな》ぎにのびたとおもうと、わッと、部将《ぶしよう》は血へどをはいてぶったおれた。
刹那《せつな》だ。ズドンと弾《たま》けむりがあがった——
はッとして身をしずめた忍剣《にんけん》が、ふりかえってみると種子島《たねがしま》をもったひとりの黒具足《くろぐそく》が、虚空《こくう》をつかみながら煙のなかであおむけにそりかえっている。
はて? と眸《ひとみ》をさだめてみると、その脾腹《ひばら》へうしろ抱きに脇差《わきざし》をつきたてていたのは、いつのまに飛びよっていたか武田伊那丸《たけだいなまる》であった。
「お、若さま!」
忍剣は、あまりなかれの大胆《だいたん》と手練《しゆれん》に目をみはった。
「忍剣、そちのうしろから、鉄砲《てつぽう》をむけた卑怯者《ひきようもの》があったによって、わしが、このとおりにしたぞ」
伊那丸は、笑顔《えがお》でいった。