三
幾里《いくり》も幾里ものあいだ、ただいちめんに青すすきの波である。その一すじの道を、まッくろな一|群《ぐん》の人間が、いそぎに、いそいでいく。それは伊那丸《いなまる》をまン中にかためてかえる、さっきの野武士《のぶし》だった。
「や、どこかで笛《ふえ》の音《ね》がするぜ……」
そういったものがあるので、一同ぴったと足なみをとめて耳をすました。なるほど、寥々《りようりよう》と、そよぐ風のとぎれに、笛の冴《さ》えた音がながれてきた。
「ああ、わかった。咲耶子《さくやこ》さまが、また遊びにでているにちがいない」
「そうかしら? だがあの音《ね》いろは、男のようじゃないか。どんなやつが忍《しの》んでいるともかぎらないからゆだんをするなよ」
とたがいにいましめあって、ふたたび道をいそぎだすと、あなたの草むらから、月毛《つきげ》の野馬《のうま》にのったさげ髪《がみ》の美少女が、ゆらりと気高《けだか》いすがたをあらわした。
一同はそれをみると、
「おう、やっぱり咲耶子さまでございましたか」
と荒くれ武士《ぶし》ににげなく、花のような美少女のまえには、腰をおって、ていねいにあたまをさげる。
「じゃ、おまえたちにも、わたしが吹いていた笛の音が聞えたかえ?」
と駒《こま》をとめた咲耶子は、美しいほほえみをなげて見おろしたが、ふと、伊那丸のすがたを目にとめて、三日月なりの眉《まゆ》をちらりとひそめながら、
「まあ、そのおさない人を、ぎょうさんそうにからめてどうするつもりです。伝内《でんない》や兵太《ひようた》もいながら、なぜそんなことをするんです」
と、とがめた。名をさされたふたりの野武士《のぶし》は、一足《ひとあし》でて、咲耶子《さくやこ》の駒《こま》に近よった。
「まだ、ごぞんじありませぬか。これこそ、お頭《かしら》が、まえまえからねらっていた武田家《たけだけ》の小伜《こせがれ》、伊那丸《いなまる》です」
「おだまりなさい。とりこにしても身分のある敵なら、礼儀《れいぎ》をつくすのが武門のならいです。おまえたちは、名もない雑人《ぞうにん》のくせにして、呼《よ》びすてにしたり、縄目《なわめ》にかけるというのはなんという情けしらず、けっして、ご無礼《ぶれい》してはなりませぬぞ」
「へえ」と、一同はその声にちぢみあがった。
「わたしは道になれているから、あのかたを、この馬にお乗せもうすがよい」
と、咲耶子は、ひらりとおりて伊那丸の縄《なわ》をといた。
まもなくけわしいのぼりにかかって、ややしばらくいくと、一の洞門《どうもん》があった。つづいて二の洞門をくぐると天然《てんねん》の洞窟《どうくつ》にすばらしい巨材《きよざい》をしくみ、綺羅《きら》をつくした山大名《やまだいみよう》の殿堂《でんどう》があった。
この時代の野武士の勢力はあなどりがたいものだった。徳川《とくがわ》北条《ほうじよう》などという名だたる弓とりでさえも、その勢力|範囲《はんい》へ手をつけることができないばかりか、戦時でも、野武士の区域《くいき》といえば、まわり道をしたくらい。またそれを敵とした日には、とうてい天下の覇《は》をあらそう大事業などは、はかどりっこないのである。
ここの富士浅間《ふじせんげん》の山大名《やまだいみよう》とはなにものかというに、鎌倉《かまくら》時代からこの裾野《すその》一円に|ばっこ《ヽヽヽ》している郷士《ごうし》のすえで根来小角《ねごろしようかく》というものである。
つれこまれた伊那丸《いなまる》は、やがて、首領《しゆりよう》の小角の前へでた。獣蝋《じゆうろう》の燭《しよく》が、まばゆいばかりかがやいている大広間は、あたかも、部将《ぶしよう》の城内へのぞんだような心地がする。
根来小角は、野武士《のぶし》とはいえ、さすがにりっぱな男だった。多くの配下を左右にしたがえて、上段にかまえていたが、そこへきた姿をみると座をすべって、みずから上座にすえ、ぴったり両手をついて臣下にひとしい礼をしたのには、伊那丸もややいがいなようすであった。
「お目どおりいたすものは、根来小角ともうすものです。今日《こんにち》は雑人《ぞうにん》どもが、礼《れい》をわきまえぬ無作法《ぶさほう》をいたしましたとやら、ひらにごかんべんをねがいまする」
はて? 残虐《ざんぎやく》と利慾よりなにも知らぬ野盗《やとう》の頭《かしら》が、なんのつもりで、こうていちょうにするのかと、伊那丸は心ひそかにゆだんをしない。
「また、武田《たけだ》の若君ともあるおんかたが、拙者《せつしや》の館《やかた》へおいでくださったのは天のおひきあわせ。なにとぞ幾年でもご滞留《たいりゆう》をねがいまする。ところでこのたびは、織田《おだ》徳川《とくがわ》両将軍のために、ご一門のご最期《さいご》、小角ふかくおさっし申しあげます」
なにをいっても、伊那丸は黙然《もくねん》と、威《い》をみださずにすわっていた。ただこころの奥底まで見とおすような、つぶらな瞳《ひとみ》だけがはたらいていた。
「つきましては、小角は微力ですが、三万の野武士と、裾野《すその》から駿遠甲相《すんえんこうそう》四ヵ国の山猟師《やまりようし》は、わたくしの指ひとつで、いつでも目のまえに勢ぞろいさせてごらんにいれます。そのうえ若君が、御大将《おんたいしよう》とおなりあそばして、富士《ふじ》ケ根《ね》おろしに武田菱《たけだびし》の旗あげをなされたら、たちまち諸国からこぞってお味方に馳《は》せさんじてくることは火をみるよりあきらかです」
「おまちなさい」と伊那丸《いなまる》ははじめて口をひらいた。
「ではそちはわしに名のりをあげさせて、軍勢をもよおそうという望みか」
「おさっしのとおりでござります。拙者《せつしや》には武力はありますが名はありませぬ。それゆえ、今日《こんにち》まで髀肉《ひにく》の歎《たん》をもっておりましたが、若君のみ旗《はた》さえおかしくださるならば、織田《おだ》や徳川《とくがわ》は鎧袖《がいしゆう》の一|触《しよく》です。たちまち蹴散《けち》らしてごむねんをはらします所存」
「だまれ小角《しようかく》。わしは年こそおさないが、信玄《しんげん》の血をうけた武神の孫じゃ。そちのような、野盗人《のぬすびと》の上《かみ》にはたたぬ。下郎《げろう》の力をかりて旗上げはせぬ」
「なんじゃ!」と小角のこえはガラリとかわった。
じぶんの野心を見ぬかれた腹立ちと、落人《おちゆうど》の一少年にピシリとはねつけられた不快さに、満面に朱《しゆ》をそそいだ。
「こりゃ伊那丸、よく申したな。もう汝《なんじ》の名をかせとはたのまぬわ、その代りその体を売ってやる! 織田家《おだけ》へわたして莫大《ばくだい》な恩賞《おんしよう》にしたほうが早手まわしだ。兵太《ひようた》ッ、この餓鬼《がき》、ふんじばって風穴《かざあな》へほうりこんでしまえ」
「へいッ」四、五人たって、たちまち伊那丸をしばりあげた。かれはもう観念《かんねん》の目をふさいでいた。
「歩けッ」
と兵太《ひようた》は縄尻《なわじり》をとって、まッくらな間道《かんどう》を引っ立てていった。そして地獄の口のような岩穴のなかへポーンとほうりこむと、鉄柵《てつさく》の錠《じよう》をガッキリおろしてたちさった。
うしろ手にしばられているので、よろよろところげこんだ伊那丸《いなまる》は、しばらく顔もあげずに倒れていた。ザザーッと山砂をつつんだ旋風《せんぷう》が、たえず暗澹《あんたん》と吹きめぐっている風穴《かざあな》のなかでは、一しゅんのまも目を開《あ》いていられないのだ。そればかりか、夜の更《ふ》けるほど風のつめたさがまして八寒地獄《はつかんじごく》のそこへ落ちたごとく総身《そうみ》がちぢみあがってくる。
「あア忍剣《にんけん》はどうした……忍剣はもうあの湖水の藻《も》くずとなってしまったのか」
いまとなって、しみじみと思いだされてくるのであった。
「忍剣、忍剣。おまえさえいれば、こんな野武士《のぶし》のはずかしめを受けるのではないのに……」
唇《くちびる》をかんで、転々と身もだえしていると、なにか、とん、とん、とん……とからだの下の地面がなってくる心地がしたので、
「はてな? ……」と身をおこすと、そのはずみに、目のまえの、二|尺《しやく》四方ばかりな一枚石が、ポンとはねあがって、だれやら、覆面《ふくめん》をした者の頭が、ぬッとその下からあらわれた。