五
果心居士《かしんこじ》は、なにも聞かないうちに、すべてのことを知っていた。八幡船《ばはんせん》に伊那丸《いなまる》をうばわれたことも、巽小文治《たつみこぶんじ》の身の上も。——そして、きょうのひる、日吉《ひよし》の五重塔《ごじゆうのとう》のてッぺんにいたのもじぶんであるといった。
かれは、仙人《せんにん》か、幻術師《げんじゆつし》か、キリシタンの魔法を使う者か? はじめて会った小文治は、いつまでも、奇怪な謎《なぞ》をとくことに苦しんだ。
しかし、だんだんと膝《ひざ》をまじえて話しているうちに、ようやくそれがわかってきた、かれは仙人《せんにん》でもなければ、けっして幻術使《げんじゆつつかい》でもない。ただおそろしい修養の力である。みな、自得《じとく》の研鑽《けんさん》から通力《つうりき》した人間技《にんげんわざ》であることが納得《なつとく》できた。
浮体《ふたい》の法、飛足《ひそく》の呼吸《いき》、遠知《えんち》の術《じゆつ》、木遁《もくとん》その他の隠形《おんぎよう》など、みなかれが何十年となく、深山にくらしていたたまもので、それはだれでも劫《こう》をつめば、できないふしぎや魔力ではない。
ところで、果心居士《かしんこじ》がなにゆえに、武田伊那丸《たけだいなまる》を龍太郎《りゆうたろう》にもとめさせたか、それはのちの説明にゆずって、さしあたり、はてなき海へうばわれたおんかたを、どうしてさがしだすかの相談になった。
「竹童《ちくどう》、竹童——」
居士は例の少年をよんで、小さな錦《にしき》のふくろを持ってこさせた。そのなかから、机の上へカラカラと開けたのは亀《かめ》の甲羅《こうら》でつくった、いくつもいくつもの駒《こま》であった。
かれの精神がすみきらないで、遠知の術のできないときは、この亀卜《きぼく》という占《うらな》いをたてて見るのが常であった。
「む……」ひとりで占いをこころみて、ひとりうなずいた果心居士は、やがて、客人のほうへむいて、
「民部《みんぶ》どの、こんどはあなたがいったがよろしい」といった。龍太郎はびっくりして、それへ進んだ。
「しばらく、先生のおおせながら、余人《よじん》にその儀《ぎ》をおいいつけになられては、手まえのたつ瀬《せ》も、面目《めんぼく》もござりませぬ。どうか、まえの不覚をそそぐため、拙者《せつしや》におおせつけねがいとうぞんじます」
「いや龍太郎、おまえには、さらに第二段の、大せつなる役目がある。まずこれをとくと見たがよい」
と、革《かわ》の箱から取りだして、それへひろげたのは、いちめんの山絵図《やまえず》であった。
「これは?」と龍太郎《りゆうたろう》は腑《ふ》におちない顔である。
「ここにおられる、小幡民部《こばたみんぶ》どのが、苦心してうつされたもの。すなわち、自然の山を城廓《じようかく》として、七陣の兵法をしいてあるものじゃ」
「あ! ではそこにおいでになるのは、甲州流《こうしゆうりゆう》の軍学家、小幡景憲《こばたかげのり》どののご子息ですか」
「いかにも、すでにまえから、ご浪人なされていたが、武田《たけだ》のお家のほろびたのを、よそに見るにしのびず、伊那丸《いなまる》さまをたずねだしてふたたび旗《はた》あげなさろうという大願望《だいがんもう》じゃ、おなじ志《こころざし》のものどもがめぐりおうたのも天のおひきあわせ、したが、伊那丸さまのありかが知れても、よるべき天嶮《てんけん》がなくてはならぬ。そこで、まずひそかに、二、三の者がさきにまいって地理の準備《じゆんび》、またおおくの勇士をも狩《か》りもよおしておき、おんかたの知れしだいに、いつなりと、旗あげのできるようにいたしておくのじゃ」
「は、承知いたしました。して、この図面《ずめん》にあります場所は?」
という龍太郎の問いに応じてこんどは、小幡民部が膝《ひざ》をすすめた。
「武田家《たけだけ》に縁《えん》のふかき、甲《こう》、信《しん》、駿《すん》の三ヵ国にまたがっている小太郎山《こたろうざん》です。また……」
と、軍扇《ぐんせん》の要《かなめ》をもって、民部は掌《たなごころ》を指すように、ここは何山、ここは何の陣法と、こまかに、噛《か》みくだいて説明した。
肝胆《かんたん》あい照らした、龍太郎、小文治《こぶんじ》、民部の三人は、夜のふけるをわすれて、旗上げの密議をこらした。果心居士《かしんこじ》は、それ以上は一言《ひとこと》も口をさし入れない。かれの任務《にんむ》は、ただここまでの、気運だけを作るにあるもののようであった。
翌日は早天に、みな打ちそろって僧正谷《そうじようがたに》を出立《しゆつたつ》した。龍太郎と小文治は、例のすがたのまま、旗あげの小太郎山《こたろうざん》へ。
また、小幡民部《こばたみんぶ》ひとりは、深編笠《ふかあみがさ》をいただき、片手に鉄扇《てつせん》、野袴《のばかま》といういでたちで、京都から大阪|もより《ヽヽヽ》へと伊那丸《いなまる》のゆくえをたずねもとめていく。
その方角は、果心居士の亀卜《きぼく》がしめしたところであるが、この占《うらな》いがあたるか否《いな》か。またあるいは音にひびいた軍学者小幡が、はたしてどんな奇策《きさく》を胸に秘《ひ》めているか、それは余人《よじん》がうかがうことも、はかり知ることもできない。