三
まもなく着いた、阿古屋《あこや》の松原。
梅雪入道《ばいせつにゆうどう》は鞍《くら》からおりて、海神《かいじん》の社《やしろ》に床几《しようぎ》をひかえた。
と——やがて約束の亥《い》の刻《こく》ごろ、浜辺《はまべ》のほうから、百|鬼夜行《きやこう》、八幡船《ばはんせん》の黒々とした一列が、松明《たいまつ》ももたずに、シトシトと足音そろえて、ここへさしてくる。
「民蔵《たみぞう》、民蔵」
と鳥居まえで、合図《あいず》をしたのは龍巻《たつまき》にちがいなかった。民蔵は梅雪《ばいせつ》のそばをすりぬけて、そこへかけていった。
「お頭《かしら》ですか」
「む、いいつけた使いの首尾《しゆび》はどうだった」
「こちらは、殿さまごじしんで、早くからきて、あれに待っています。そして伊那丸《いなまる》は?」
「ふんじばってつれてきた、じゃおれは、梅雪とかけあいをつけるから、きさまが縄尻《なわじり》を持っていろ。なかなか童《わつぱ》のくせに強力《ごうりき》だから、ゆだんをして逃《に》がすなよ」
龍巻は二、三十人の手下をつれて、梅雪のいる拝殿《はいでん》の前へおしていった。
縄尻をうけた民蔵は、
「やいッ、歩かねえか」わざと声をあららげて、伊那丸の背中をつく。——その心のうちでは、手をあわせている小幡民部《こばたみんぶ》であった。
しばらくのあいだ、龍巻と談合《だんごう》していた梅雪は、伊那丸の面体《めんてい》を、しかと見さだめたうえで、約束の褒美《ほうび》をわたそうといった。龍巻も心得て、うしろへ怒鳴《どな》った。
「民蔵、その童をここへひいてこい」
「へい」
民蔵は縄目《なわめ》にかけた伊那丸を、梅雪入道の前へひきすえた。拝殿の上から、とくと、見届《みとど》けた梅雪は、大きくうなずいて、
「でかしおッた。武田伊那丸《たけだいなまる》にそういない」
その時、むッくり首をあげた伊那丸は、穴山《あなやま》のすがたを、|かッ《ヽヽ》とにらみつけて、血を吐《は》くような声でいった。
「人でなしの梅雪入道《ばいせつにゆうどう》!」
「な、なにッ」
「お祖父《じい》さま(信玄《しんげん》)の時代より、武田家《たけだけ》の禄《ろく》を食《は》みながら、徳川《とくがわ》軍へ内通したばかりか、甲府攻《こうふぜ》めの手引きして、主家《しゆけ》にあだなした犬侍《いぬざむらい》。どの面《つら》さげて、伊那丸の前へでおった、見るもけがれだ。退《さが》れッ」
「ワッハッハハハハ」梅雪は内心ギクとしながら、老獪《ろうかい》なる嘲笑《ちようしよう》にまぎらわして、
「なにをいうかと思えば、小賢《こざか》しい無礼呼《ぶれいよ》ばわり。なるほどその昔は、信玄公にも仕《つか》え、勝頼《かつより》にも仕《つか》えた梅雪じゃが、いまは、主《しゆ》でもなければ君《きみ》でもない。武田の滅亡は、お許《もと》の父、勝頼が暗愚《あんぐ》でおわしたからじゃ。うらむならお許の父をうらめ、馬鹿大将の勝頼をうらむがよい」
「ムムッ……よういッたな!」
不道の臣に面罵《めんば》されて、身をふるわせた伊那丸は、やにわに、ガバとはねおきるがはやいか、両手を縛《ばく》されたまま、梅雪に飛びかかって、ドンと、かれを床几《しようぎ》から蹴《け》とばした。
「なにをするか」
縄尻《なわじり》をひいた民蔵《たみぞう》の力に、伊那丸《いなまる》はあおむけざまにひッくり返った。ア——おいたわしい! とおもわず睫毛《まつげ》に涙のさす顔をそむけて、
「ふ、ふざけたまねをすると承知《しようち》しねえぞ。立て! こっちの隅《すみ》へ寄っていろい!」
ズルズルと引きずってきて、拝殿の柱《はしら》へ縄尻をくくりつけた。龍巻《たつまき》はそれをきッかけにして、
「じゃあ殿《との》さま、伊那丸はたしかに渡しましたから、約束の金を、こっちへだしてもらいましょうか」
「む、いかにも褒美《ほうび》をつかわそう、これ、用意してきた黄金をここへ持て」
と、家臣にになわせてきた三箱の金をそこへ積ませると、
「さすがは大名《だいみよう》、これだけの黄金をそくざに持ってきたのはえらいものだ」
と、ニタリ笑《え》つぼに入《い》った。
「やい野郎ども、はやくこの黄金を軽舸《はしけ》へ運んでいけ。どりゃ、用がすんだら引きあげようか」
と手下にそれをかつがせて、龍巻も立とうとすると、
「やッ、大へんだ、おかしら、少ウしお待ちなさい」
と民蔵がことさら大きな声で、出足をとめた。
「なんでえ、やかましい」
龍巻《たつまき》は、舌《した》うちをしてふりかえった。社《やしろ》の廻廊《かいろう》にたって、小手《こて》をかざしていた民蔵《たみぞう》は、なおぎょうさんにとびあがって、
「一大事一大事! おかしら、沖の親船が焼ける! あれあれ、親船が燃《も》えあがってる!」
と、手をふりまわした。