三
月の夜には澄《す》み、朝《あした》は露をまろばせても、聞く人もないこの裾野《すその》に、ひとり楽しんでいる笛《ふえ》は、咲耶子《さくやこ》が好きで好きでたまらない横笛ではないか。
しかし、その優雅《ゆうが》な横笛は、時にとって身を守る剣《つるぎ》ともなり、時には、猛獣《もうじゆう》のような野武士《のぶし》どもを自由自在にあやつるムチともなる。
いましも、小高い丘《おか》の上にたって、その愛笛《あいてき》を頭上にたかくささげ、部下のうごきから瞳《ひとみ》をはなたずにいた彼女のすがたは、地上におりた金星の化身《けしん》といおうか、富士の女神《めがみ》とたとえようか、丈《たけ》なす黒髪は風にみだれて、麗《うるわ》しいともなんともいいようがない。
「アッ——」
ふいに、彼女の唇《くちびる》を洩《も》れたかすかなおどろき。
その眸《ひとみ》のかがやくところをみれば、いまがいままでしどろもどろにみだれたっていた、穴山梅雪《あなやまばいせつ》の郎党《ろうどう》たちはひとりの武士《ぶし》の采配《さいはい》を見るや、たちまちサッと退《ひ》いて中央に一列となった。
それは民部《みんぶ》の立てた蛇形《だぎよう》の陣。
咲耶子《さくやこ》はチラと眉《まゆ》をひそめたが、にわかに右手《めて》の笛をはげしく斜《なな》めにふって落とすこと二へん、最後に左の肩へサッとあげた。——とみた野武士の猛勇《もうゆう》は、ワッと声つなみをあげて、蛇形陣《だぎようじん》の腹背《ふくはい》から、勝ちにのって攻めかかった。
そのとき早く、ふたたび民部の采配が、龍《りゆう》を呼ぶごとくさっとうごいた。と見れば、蛇形の列は忽然《こつねん》と二つに折れ、まえとは打ってかわって一|糸《し》みだれず、扇形《おうぎがた》になってジリジリと野武士の隊伍《たいご》を遠巻きに抱いてきた。
「あッ、いけない。あれはおそろしい鶴翼《かくよく》の計略」
咲耶子はややあわてて、笛を天から下へとふってふってふりぬいた。
それは退軍の合図《あいず》であったと見えて、いままで攻勢《こうせい》をとっていた野武士《のぶし》たちは、一どにどッと潮《うしお》のごとく引きあげてきたようす。が、民部《みんぶ》の采配《さいはい》は、それに息をつく間《ま》もあたえず、たちまち八|射《しや》の急陣と変え、はやきこと奔流《ほんりゆう》のように、追《お》えや追えやと追撃《ついげき》してきた。
「オオ、なんとしたことであろう」
あまりの口惜《くや》しさに、咲耶子《さくやこ》はさらに再三再四、胡蝶《こちよう》の陣《じん》を立てなおして、応戦《おうせん》をこころみたが、こなたで焔《ほのお》の陣をしけば、かれは水の陣を流して防ぎ、その軍配《ぐんばい》は孫呉《そんご》の化身《けしん》か、楠《くすのき》の再来かと、あやしまれるほど、機略縦横《きりやくじゆうおう》の妙《みよう》をきわめ、手足のごとく、奇兵に奇兵を次《つ》いでくる。
さすがの胡蝶陣《こちようじん》に妙《みよう》をえた咲耶子《さくやこ》も、いまはほどこすに術《すべ》もなくなった。精鋭無比《せいえいむひ》の彼女の部下の刃《やいば》も、いまはしだいしだいに疲れてくるばかり。
「それッ、この機をはずすな!」
「いずこまでも追って追って追いまくれッ」
「裾野《すその》の野武士《のぶし》を根絶《ねだ》やしにしてくれようぞ」
穴山《あなやま》の四天王《してんのう》猪子伴作《いのこばんさく》、足助主水正《あすけもんどのしよう》、その他の郎党《ろうどう》は、民部が神のごとき采配ぶりにたちまち頽勢《たいせい》を盛《も》りかえし、猛然《もうぜん》と血槍《ちやり》をふるって追撃《ついげき》してきた。
西へ逃げれば西に敵、南に逃げれば南に敵、まったく民部の作戦に翻弄《ほんろう》されつくした野武士たちは、いよいよ地にもぐるか、空にかけるのほか、逃げる路《みち》はなくなってしまった。
と、咲耶子《さくやこ》のいる丘《おか》の上から、悲調《ひちよう》をおびた笛の音《ね》が一声《ひとこえ》高く聞えたかと思うと、いままでワラワラ逃げまどっていた野武士《のぶし》たちの影は、忽然《こつねん》として、草むらのうちにかくれてしまった。胆《きも》をけした穴山《あなやま》一族の将卒《しようそつ》は、血眼《ちまなこ》になって、草わけ、小川の縁《へり》をかけまわったが、もうどこにも一人の敵すら見あたらず、ただいちめんの秋草の波に、野分《のわき》の風がザアザアと渡るばかり。
狐《きつね》につままれたようなうろたえざまを、丘《おか》の上からながめた咲耶子は、帯のあいだに笛をはさみながら、ニッコリ微笑《びしよう》をもらして、丘のうしろへとびおりようとしたその時である。
「咲耶子とやら、もうそちの逃げ道はないぞ」
りんとした声が、どこからか響《ひび》いてきた。
「え?」思わず目をみはった彼女の前に、ヒラリとおどりあがってきたのは、いつのまにここへきたのか、さっきまで采配《さいはい》をとって敵陣《てきじん》にすがたをみせていた小幡民部《こばたみんぶ》であった。
「あッ」
さすがの彼女もびっくりして、丘《おか》のあなたへ走りだすと、そのまえに、四天王《してんのう》の佐分利五郎次《さぶりごろうじ》が、八、九人の武士《ぶし》とともに、槍《やり》ぶすまをつくってあらわれた。ハッと思って横へまわれば、そこからも、不意にワーッと鬨《とき》の声があがった。うしろへ抜けようとすればそこにも敵。
いまはもう四|面楚歌《めんそか》だ。絶望《ぜつぼう》の胸をいだいて、立ちすくんでしまうよりほかなかった。とみるまに、丘の上は穴山方《あなやまがた》の薙刀《なぎなた》や太刀《たち》で、まるで剣をうえた林か、針《はり》の山のように、いっぱいにうずまってしまった。
「咲耶子《さくやこ》、咲耶子、もういかにもがいても、この八|門鉄壁《もんてつぺき》のなかからのがれることはできぬぞ、神妙《しんみよう》に縄《なわ》にかかッてしまえ」
小幡民部《こばたみんぶ》は、声をはげましてそういった。
無念《むねん》そうに、唇《くちびる》をかみしめていた咲耶子は、ふたたびかくれた野武士《のぶし》たちを呼《よ》びだすつもりか、帯《おび》のあいだの横笛をひきぬいて、さッと、ふりあげようとしたが、その一瞬《いつしゆん》、
「えい、不敵な女め」
佐分利五郎次《さぶりごろうじ》が、飛びかかるが早いか、ガラリとその笛を打ちおとすと、とたんに、右からも、走りよった足助主水正《あすけもんどのしよう》が早業《はやわざ》にかけられて、あわれ、野《の》百合《ゆり》のような小娘《こむすめ》は、情《なさ》け容赦《ようしや》もなくねじあげられてしまった。